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ガンダーラ美術

2021-10-09 23:45:22 | 日記
ここ数ヶ月ほど、仏教に関して多く記述しているような気がする。仏教のみを主題にしたわけではないが、ミャンマーのクーデターにしろ、雪舟の絵にしろ、やはり仏教を抜きにしてその全貌や核心を把握することは困難に思えるからだ。そして仏教の歴史を紐解くと、上座部仏教と大乗仏教に大別されるという話も書いた。今回はガンダーラ美術が主題だが、これは仏教美術において、私たち日本人に根付いている大乗仏教を礎とする。

ガンダーラは現代のインドとパキスタン両国に被る地域だが、古来よりここは大国に翻弄されてきた歴史がある。特に紀元前7世紀に地中海沿岸からインダス川流域に至るまでの大版図を誇った超大国アケメネス朝ペルシャに領有されていた時代から、紀元前4世紀その超大国がアレキサンダー大王の大東征で瞬く間に崩壊すると、超人的に活躍した大王の呆気ない急死で後継のセレウコス朝の支配下に入る。ところが間もなくして今度はインドのマウリヤ朝に侵略されてしまうのだ。大変慌しい流れだが、これが約100年足らずの間に展開している。その大掃除のような攻防の後、様々な民族が交差しながらも、古代においてこの地はギリシャ系の人々が多く住んでいたようだ。

以前にこのブログで、仏教の創始者の釈迦は後世において、本人が像にされて拝まれることを望まなかったであろうと述べた。そして仏像が発生するのは、やはりアレキサンダー大王がインド亜大陸にまで遠征したことが一因だ。つまり大王の出生地マケドニアを含めたバルカン半島のギリシャ地域から、オリンポスの神々を表現した古代ギリシャ彫刻の写実的な美術様式がガンダーラ地方を含めた北西インドや中央アジアに伝わったことで、その影響を受けてこの釈迦像は創造されたと云える。

仮にこうした経緯を知らなかった場合、私たち日本人はこのガンダーラ美術の代表作である釈迦像に相当な違和感を覚えるはずである。なぜなら日本人に馴染み深い仏像とは、もっと目が細く鼻も高くない黄色人種の顔をしているからだ。ところがこの釈迦像は明らかに黄色人種よりも白人種に近い印象を抱かせる。しかしインド史に焦点を当てれば、実在した釈迦は肌の色はともかくその骨格が白人種であったことはまず間違いない。つまりこの釈迦像の方が、日本列島や朝鮮半島、それに中国大陸で一般的に見られる仏像の釈迦よりも現実の姿に近いのだ。

それは釈迦の出自が王国の王子であり、インド亜大陸の支配階級であったことに起因する。彼らは遥か昔に黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス周辺に住んでいた白人種のアーリア人だ。そしてアレキサンダー大王の大東征よりもさらにずっと遠く古い時代のどこかのタイミングで、大移動を敢行してインド亜大陸に侵入した外来民族であった。釈迦はその末裔に当たる。つまりこうした歴史を踏まえるならば、正直なところ釈迦はやはり白人になってしまう。

それはともかく釈迦が仏教を起こしたのは、勿論のこと古代インド亜大陸の先住民を征服した侵略者の先祖を讃える為ではなかった。現代社会と同様に酷い格差が存在し、戦乱や搾取が絶えない惨状を憂い、これを善処することを真剣に模索しており、そしてそれは詰まるところ組織だって何かを計画し遂行することではなく、むしろ人間一人一人の意識改革であったように思われる。釈迦が過酷な苦行を放棄し瞑想することで悟りの境地に達するのは壮年期以降のことだが、この釈迦像の表情は実に清々しく、そこへ既に到達していることが感じられる。

私が古代ギリシャ彫刻で最も魅了されるのは、古拙の微笑みと呼ばれるアルカイックスマイルだ。この抑制された表情の口元には微笑みが見受けられるのだが、実は嘆きと紙一重でもある。特に古代ギリシャ彫刻には、瀕死の兵士の彫像も造られており、意外にもその口元は微笑んでいる。これは恐らく当時の無惨な戦場下で致命傷を負い死んでいく男が、死を迎えて不条理な生からやっと解放される瞬間、つまり苦痛の消失による儚い安堵を表現したように思えてならない。

古代のガンダーラ地方も先に述べたように、大国の狭間で戦禍が絶えない時期が多かった。戦争を指揮したアレキサンダー大王やセレウコス朝シリアのセレウコス1世やマウリヤ朝インドのチャンドラグプタ王には、所詮は末端で駒のごとく働かされる一兵卒の気持ちには、想像が及ばなかったかもしれない。しかしながらこの釈迦像はそれを熟知している。口元の微笑みには、やはり嘆きと紙一重の趣きが漂っているからだ。そして興味深いことに、アレキサンダー大王もセレウコス1世もチャンドラグプタ王も英雄視されて彫刻化されているにも関わらず、彼らの威厳に満ちた表情にはアルカイックスマイルの要素は皆無である。

ガンダーラ美術が花開くのは紀元1世紀以降で、インド北部から中央アジアを領有していたクシャーナ朝が仏教を厚く保護していた時代だ。ただインドは中国とは異なり小国が分立し、広大な版図を有する大帝国の王朝が勃興するケースは少ない。中国大陸が古代に秦の始皇帝によって統一された後に戦国期はあったにせよ、漢、隋、唐、宋、元、明、清といった数多くの歴代王朝が誕生したのとは対照的だ。恐らくそれはインド亜大陸が赤道を挟んで、北半球と南半球に跨っていることも大きな理由だと云える。つまり気候や風土も多様な上に、多人種、多民族、多宗教が混沌と混在した大陸を統一するのは至難の業なのだ。それを証明するかのように、実質的にインド亜大陸全域を支配下に収めた巨大帝国の王朝は紀元前4世紀から約200年ほど続いたマウリヤ朝だけである。そしてそのマウリヤ朝の領土が最大化するのは、仏教が国王に最大級の保護を受けた時だ。

それは初代チャンドラグプタ王の孫のアショカ王の時代に現出した。そしてこの紀元前3世紀に隆盛した仏教は上座部仏教である。元来マウリヤ朝は軍事力でひたすら領土拡大を図る覇権国家であったが、3代目のアショカ王は激烈な征服戦争の果てに、絶え間ない殺戮による惨禍を目の当たりにしてついに改心する。そして暴力を放棄し仏教に帰依した。

時の権力者が悔い改め、圧政から善政へと方針転換することは素晴らしいことである。このターニングポイントから、上座部仏教は北半球はアフガニスタンから西方のギリシャ語圏やペルシャ語圏やアラビア語圏を含めたヘレニズム世界へ伝わり、さらに南半球はインド料理でも有名なアーンドラ地方にまで広がっていく。しかも海上交易を通じてスリランカや東南アジア地域にも上座部仏教は伝来していくのだ。尤もこの頃はまだ、中国大陸や朝鮮半島、それに日本列島には仏の教えは殆ど伝わっていない。 

アショカ王が統治したマウリヤ朝の時代、ほぼインド亜大陸全域から東南アジアへ上座部仏教が伝来しはじめた頃に、釈迦の神格化が強まりだす。仏像はまだ発生してはいないが、釈迦の位牌を崇拝するスタイルが浸透していく。その遺骸を納めたとされる卒塔婆の登場である。特に圧政から善政に切り替えてからのアショカ王は病院を建設したり、拷問や死刑を廃止したりと、暴虐で血塗られた前半生を猛省して社会に仏法を反映させることに熱意を持って取り組んだ。ただし上座部仏教に特徴的な、上から下へ仏の教えを高圧的に教化する姿勢は健在で、詰まるところ釈迦の権力への利用が常態化してしまう。

これはガンダーラ美術が生まれたクシャーナ朝の統治体制にも共通する。クシャーナ朝は紀元後1世紀から3世紀にかけて、中央アジアから北インドを支配していたが、小国ではない多民族や多人種を要する帝国ではあっても、当然のこと紀元前のマウリヤ朝の広大過ぎる版図には及ばない。しかし、先にも述べたように古代ギリシャ彫刻のアルカイックスマイルがガンダーラ美術に伝承されたことによって、仏像を崇拝する人々の心に、釈迦の威光を利用する権力を支持する、謂わば強者に憧れてそこに感情移入し、自らの社会的弱者の立ち位置を忘れてしまえる気持ちとは違う、権力に洗脳されない、もっと深くて純粋な信仰心も芽生えていたように思われる。たとえば心が救済されて豊かになることで、身近な人々への感謝や思い遣りも生まれ、結果的に犯罪も減って社会全体も浄化されてゆくというような。特に大乗仏教は上座部ではない大衆部の僧の布教活動で、仏の教えを知る余裕さえなかった貧困層にも浸透していくわけだが、それはまず仏像と出会うことで釈迦の存在を感じることから始まったのかもしれない。

クシャーナ朝は実はインド人ではなく、ペルシャ人が支配層の王朝である。そして最盛期のカニシカ王は、マウリヤ朝のアショカ王のように自ら仏教徒にはならなかった。この為、大乗仏教の政治利用の側面が非常に強い。特に大乗仏教がそれまでの上座部仏教よりも民衆の支持を多く集めたことで、王の治世は揺るぎないものになった。そしてカニシカ王は経済政策を含めた外交に長じた指導者で、西の古代ローマ帝国や、東の漢帝国とも交易している。つまり日本に仏像や漢訳された仏典を含めた大乗仏教が伝来した決め手は、古代インドにこのクシャーナ朝が存在していたことだ。

ガンダーラ地方の仏像と日本の仏像を比較すると、白人種から黄色人種に容貌は変化しているものの、やはりそこで共有できるのはあのアルカイックスマイルである。そしてガンダーラ美術における彫刻には、古代ギリシャだけではなく、その様式を継承した古代ローマの色合いも微妙に含まれている。それは当時のギリシャ地域のバルカン半島が古代ローマ帝国の領域内であり、そこで暮らす彫刻の制作者は古代ローマ帝国に属していたからだ。クシャーナ朝は積極的に古代ローマ帝国と交易していた為に、彫刻を介した人的交流も盛んであったが、ガンダーラ美術の担い手はどうやらギリシャ系の人々であったと思われる。しかも時代の変遷で古代ローマの歴代皇帝は教養としてギリシャ語をマスターするほど古代ギリシャの文化を尊重していた。つまりクシャーナ朝は文化的にはギリシャ化しつつあった古代ローマ帝国から彫刻技術を輸入していたのだ。

人物彫刻において古代のギリシャとローマの違いを一言で表すならば、古代ギリシャ彫刻は官能の美であり、古代ローマ彫刻は退廃の美であると云われる。そして古代ローマ彫刻の退廃の美に潜むのは、権威や権力の腐敗によって不条理が横行する人間社会に対する厭世観ではないか。これは仏教の末法思想や、キリスト教の終末観にも相通じるように思われる。ガンダーラ美術が、中央アジアから中国大陸を経由して遠く朝鮮半島や日本列島にまで大乗仏教と共に届いたのは、仏像を造形する人々がその創造の過程において、変容しながらもアルカイックスマイルを取り去らなかったからだ。その微笑と悲嘆が紙一重で同居する仏像の口元には、衆生を照らす慈悲の光が感じられる。

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