前回、前々回と高村光雲の素晴らしい彫刻作品をご紹介した。それに引き続き今回は「聖徳太子坐像」である。そしてこの座っている聖徳太子が「楠公像」の馬上の楠木正成と表情が微妙に似ていることを、このブログで指摘したわけだが、実際に写真画像で確認していただくと、その表情が似ているだけではなく、連続性のある流れも感じられるように思う。それはやはり「楠公像」が日露戦争が始まる前に完成しており、この「聖徳太子坐像」は日露戦争が終わった後に完成していることに起因する。特に楠木正成よりもこの聖徳太子の表情の方が険しく厳しいのは、戦争の惨禍が現実化してしまったことへの悲嘆であろう。
これは明治期の帝国主義国同士の戦争が、高村光雲の彫刻制作にも、何かしらの影響を与えてしまったことを意味する。ただしパブロ・ピカソが描いた「ゲルニカ」のように、第2次世界大戦に対する強烈な反戦のビジョンに貫かれている芸術作品ではない。それに1940年代に「ゲルニカ」を制作中のピカソが、スペイン人でありながらフランスに在住したフランス共産党員であったことと比較すると、その約40年ほど前を生きていた高村光雲は、彼自身の政治的な立ち位置が明確ではなかった。しかも光雲は生前に大日本帝国政府から従三位に叙せられている。従三位とは古代中国の貴族階級に習った位階で、いわば貴族の称号を政府から正式に与えられたわけだ。この為、ピカソとは正反対に国家権力に従順な芸術家というレッテルを貼られていたとしても不思議はない。
ところが事実はもっと多面的で重層的なのが芸術の世界である。なぜなら芸術家の本性とは、創造行為とそれによって完成した作品にこそ如実に現れるからだ。つまり高村光雲の本性とは、晩年の肖像写真で確認できる勲章をつけた欧米列強の帝国政府要人のような外見とは全く違う。恐らく彼の内面に潜む本性とは、やはりその創造のスタート地点、つまり仏師であろう。それを象徴するように高村光雲の作品全てには否応もなく仏性が宿ってしまっている。これは誤魔化しようのない真実だ。それゆえ依頼された仕事を断ることはなくとも、自らの信念を裏切れなかった。この「聖徳太子坐像」とて、在野の仏教信者であった聖徳太子が、皇族というよりも無辜の民に果てしなく近い存在感で座っている。
高村光雲のそうした真実を一番良く知っていたのは、息子の高村光太郎であろう。光太郎は父の光雲から、それこそ一子相伝で彫刻の技を学び彫刻家としても優れた作品を発表したが、父の光雲を超える域には到達しなかった。また光太郎は彫刻家としてよりも詩人として著名な人物である。そして興味深いのは、父親の彫刻作品と比べると、息子のそれは宗教美術としての匂いが薄いことだ。むしろ現実をありのままに表現する典型的な近代西洋彫刻の影響が濃い。それは詩人であった彼が書き残した数多くの言葉にも表れている。しかも光太郎がかなり政治的思想信条が明白なことも、親子でありながら光雲とは違うところだ。
高村光太郎は父親の光雲を深く尊敬しつつも、批判的な視点も有していた。特に光雲を芸術家というよりは職人だったと評している。そして光太郎は職人を志向せず、当然のこと職人気質も薄かった。彼が目指した芸術家像とは国家意識と無縁ではなく、積極的に政治的発言もする欧米列強諸国の近代文化人が、保守的に政府を擁護しながら芸術活動を行うスタイルに近い。これは現代の私たちの視点からすると相当な違和感もあるのだが、日本の場合、第2次世界大戦が終わるまで、国政や民意に影響を与えるような文化人の多くが戦争を人災ではなく、天災と変わらない謂わば仕方がない災厄として認識していた。また対外侵略をアジア解放という美辞麗句で誤魔化し、その上で大きな国益を弾き出す政策として一方的に支持する人もいたほどである。明治期に日清戦争で従軍記者に志願した正岡子規などはその代表的な人物だし、高村光太郎は愚かしくも昭和初期に日本の真珠湾攻撃を支持している。
高村光雲はその正岡子規とほぼ同時代を生きた明治の文化人といえるが、果たして彼は日露戦争に賛成だったのか、反対だったのか、はっきりとした記録は残っていない。しかしそれでも彼の残した「楠公像」.「西郷隆盛像」、そしてこの「聖徳太子坐像」を拝見する限り、反戦の意志がそこに滲み出ている。そして言葉では語らずとも、彼の心を反戦に向かわせた動機とは、国家や民族や人種の区別なく暴力を否定する釈迦の声であったと思われる。彼は職人としての仏師の耳で時空を超えてそれを傾聴し、制作の手を動かしながらそれを感知したのではないか。
日露戦争に関しては、当時の日本国内の民意のみならず政府の中枢においても、ほぼ全体主義が蔓延した格差社会の空気の中、意外にも少数の反対意見は存在していた。ここから鑑みると明治という時代は、文明開花における殖産興業や富国強兵といった技術革新も含めた外在的な面だけではなく、現代に近い民主主義的な風潮も西欧から少しづつ入ってきていたということである。またそれゆえに廃仏毀釈で壊滅的な打撃を受けた仏教界も、信教の自由に配慮して宗教弾圧を緩和しだした政府から、利用価値を見出される形で再編成されていく。実際、軍服に身を包んだ帝国軍人の頭髪は坊主頭であったし、鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府に保護され続けてきた禅宗は、修行という側面で武道と親和性があった。要は仏教がご都合主義で戦争を起こす政治権力に利用されているわけである。
ところが、そもそも社会人としての仕事の原点が仏師である高村光雲にしてみれば、仏教が政治利用されてしまう外側の世界は、もう幻滅を通り越してどこ吹く風であったはずだ。特に幕末動乱から激動の時代を、腕一本で生き抜いてきた彼は周りにどんな風が吹いていようと、ひたむきに創造にうちこむ他なかった。その結果、光雲の作品が明治天皇を魅了し所望されたことは、人生最大の幸運であり、谷底から一気に山頂へ駆け上がるほど極端な形で、窮状から脱出できる転機となった。ただそれ以降、帝国美術院に所属し東京美術学校で教授職に就いているこの父親に対し、当惑と違和感を覚えていたのが息子の高村光太郎だ。これは多分、光雲の政府に対する面従腹背の態度が許せなかったのではないか。
どうも高村光雲と光太郎の親子には確執があったようだ。苦労人の父親が築いた財のお陰で、欧米への留学を果たせた高村光太郎だが、父から学んだ木彫の技を無視するように、西洋美術にのめり込んでいく。そして美術の分野だけでなく、西洋文明そのものを現地で実感して帰国するのだが、意外にも西洋文明に対する造詣が深まることで、それが相乗効果となり自国の日本文化への学識も深めていった。実際、般若心経を読解し、臨済禅もマスターしており、こうした面で父の光雲よりも仏教の知識は明らかに広範囲に渡っていたと思われる。
つまり高村光太郎の方が、高村光雲よりも知的で教養も豊かであったことは間違いない。そして彫刻技術では、この親子の作品の完成度はほぼ拮抗している。この辺り、光太郎は流石に光雲の息子だと思わせる才能の片鱗が窺えるからだ。しかしながら表現力ではやはり父親の光雲には及ばなかった。それはこの「聖徳太子坐像」を見れば一目瞭然だ。なぜなら光雲の手になるこの聖徳太子は、今にも「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」という生前の肉声を発しそうである。こうした鑑賞者へ何かを語りかけてくる魅力が、造形美の完成度に関係なく、光太郎の作品には希薄であった。
高村光太郎自身は主義主張や政治的発言を言葉で明言していたが、当時の帝国主義国家群の政府が掲げるプロパガンダをサポートしていた典型的な多数派の文化人だといえよう。これは片山潜や幸徳秋水や内村鑑三、それに与謝野晶子らが日露開戦に反戦の声をあげたのとは対照的だ。そして光太郎の父である光雲その人は反戦の声を上げなかったが、彼の仏性を宿した作品からは反戦の声が必然的に聞こえてくる。
古代日本の飛鳥時代に現れた聖徳太子は、為政者ではあっても、仏教を闇雲に政治利用しようとはしなかった。当時の国際情勢にも精通し、隋のような巨大帝国が思想的インフラとして仏教を中国大陸の統治に活用したことを参考にしても一切合切を踏襲したわけではない。特に晩年における仏教の慈悲の精神を礎とした社会福祉政策は、彼の死後に太子信仰を生み、その影響は身分の差を越えて広がり、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、民衆の目線で布教をはじめた法然や親鸞、それに道元や日蓮らに及んだ。そして近代の高村光雲に限らず、古代、中世、近世の時の流れの中で、仏師によって太子像は数多く造られてきた。
そんな数多ある太子像の中で、この「聖徳太子坐像」に特徴的なのは、壮年期を推察できる姿形でありながら、威厳を示す髭を蓄えていないことだ。これは恐らく作者高村光雲の意図であろう。髭を取り去ることで、権威や権力の側から聖徳太子を遊離させている。そして日露戦争後の世界に警鐘を鳴らしているようだ。つまり反戦や非戦への揺るがない意志表示である。
日露戦争の結果に関しては、両者痛み分けというのが、客観的事実であろう。日本もロシアも歴史の教科書には自国が勝利したと著述しているようだが、双方8万人以上の戦死者を出し、これだけの犠牲があっても歴然とした勝敗は着いていないのだから悲惨な結末である。恐らく高村光雲という人は、戦争の足音が聞こえてきたら、全力でそれを止める気概を持っていた。彼の場合、口にせずとも、創造する手がそう語らずにはおれなかったのだ。ただ残念なことに、日露戦争後も日本とロシアは第1次世界大戦に参戦してしまう。
ロシア帝国は第1次世界大戦中に、共産主義革命により内部から崩壊するが、大日本帝国が崩壊するのは高村光雲が鬼籍に入って以降、第2次世界大戦で連合国に敗北した時だ。敗戦を受容してからの高村光太郎は、それまでの戦争協力詩さえ書いていた国粋主義的姿勢から、憑きものが落ちたように一変した。その後の彼が創作した詩や、創造した彫刻には平和への希求が感じられる。そこにはかつて確執のあった父の光雲と和解する光太郎がいるようだ。
これは明治期の帝国主義国同士の戦争が、高村光雲の彫刻制作にも、何かしらの影響を与えてしまったことを意味する。ただしパブロ・ピカソが描いた「ゲルニカ」のように、第2次世界大戦に対する強烈な反戦のビジョンに貫かれている芸術作品ではない。それに1940年代に「ゲルニカ」を制作中のピカソが、スペイン人でありながらフランスに在住したフランス共産党員であったことと比較すると、その約40年ほど前を生きていた高村光雲は、彼自身の政治的な立ち位置が明確ではなかった。しかも光雲は生前に大日本帝国政府から従三位に叙せられている。従三位とは古代中国の貴族階級に習った位階で、いわば貴族の称号を政府から正式に与えられたわけだ。この為、ピカソとは正反対に国家権力に従順な芸術家というレッテルを貼られていたとしても不思議はない。
ところが事実はもっと多面的で重層的なのが芸術の世界である。なぜなら芸術家の本性とは、創造行為とそれによって完成した作品にこそ如実に現れるからだ。つまり高村光雲の本性とは、晩年の肖像写真で確認できる勲章をつけた欧米列強の帝国政府要人のような外見とは全く違う。恐らく彼の内面に潜む本性とは、やはりその創造のスタート地点、つまり仏師であろう。それを象徴するように高村光雲の作品全てには否応もなく仏性が宿ってしまっている。これは誤魔化しようのない真実だ。それゆえ依頼された仕事を断ることはなくとも、自らの信念を裏切れなかった。この「聖徳太子坐像」とて、在野の仏教信者であった聖徳太子が、皇族というよりも無辜の民に果てしなく近い存在感で座っている。
高村光雲のそうした真実を一番良く知っていたのは、息子の高村光太郎であろう。光太郎は父の光雲から、それこそ一子相伝で彫刻の技を学び彫刻家としても優れた作品を発表したが、父の光雲を超える域には到達しなかった。また光太郎は彫刻家としてよりも詩人として著名な人物である。そして興味深いのは、父親の彫刻作品と比べると、息子のそれは宗教美術としての匂いが薄いことだ。むしろ現実をありのままに表現する典型的な近代西洋彫刻の影響が濃い。それは詩人であった彼が書き残した数多くの言葉にも表れている。しかも光太郎がかなり政治的思想信条が明白なことも、親子でありながら光雲とは違うところだ。
高村光太郎は父親の光雲を深く尊敬しつつも、批判的な視点も有していた。特に光雲を芸術家というよりは職人だったと評している。そして光太郎は職人を志向せず、当然のこと職人気質も薄かった。彼が目指した芸術家像とは国家意識と無縁ではなく、積極的に政治的発言もする欧米列強諸国の近代文化人が、保守的に政府を擁護しながら芸術活動を行うスタイルに近い。これは現代の私たちの視点からすると相当な違和感もあるのだが、日本の場合、第2次世界大戦が終わるまで、国政や民意に影響を与えるような文化人の多くが戦争を人災ではなく、天災と変わらない謂わば仕方がない災厄として認識していた。また対外侵略をアジア解放という美辞麗句で誤魔化し、その上で大きな国益を弾き出す政策として一方的に支持する人もいたほどである。明治期に日清戦争で従軍記者に志願した正岡子規などはその代表的な人物だし、高村光太郎は愚かしくも昭和初期に日本の真珠湾攻撃を支持している。
高村光雲はその正岡子規とほぼ同時代を生きた明治の文化人といえるが、果たして彼は日露戦争に賛成だったのか、反対だったのか、はっきりとした記録は残っていない。しかしそれでも彼の残した「楠公像」.「西郷隆盛像」、そしてこの「聖徳太子坐像」を拝見する限り、反戦の意志がそこに滲み出ている。そして言葉では語らずとも、彼の心を反戦に向かわせた動機とは、国家や民族や人種の区別なく暴力を否定する釈迦の声であったと思われる。彼は職人としての仏師の耳で時空を超えてそれを傾聴し、制作の手を動かしながらそれを感知したのではないか。
日露戦争に関しては、当時の日本国内の民意のみならず政府の中枢においても、ほぼ全体主義が蔓延した格差社会の空気の中、意外にも少数の反対意見は存在していた。ここから鑑みると明治という時代は、文明開花における殖産興業や富国強兵といった技術革新も含めた外在的な面だけではなく、現代に近い民主主義的な風潮も西欧から少しづつ入ってきていたということである。またそれゆえに廃仏毀釈で壊滅的な打撃を受けた仏教界も、信教の自由に配慮して宗教弾圧を緩和しだした政府から、利用価値を見出される形で再編成されていく。実際、軍服に身を包んだ帝国軍人の頭髪は坊主頭であったし、鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府に保護され続けてきた禅宗は、修行という側面で武道と親和性があった。要は仏教がご都合主義で戦争を起こす政治権力に利用されているわけである。
ところが、そもそも社会人としての仕事の原点が仏師である高村光雲にしてみれば、仏教が政治利用されてしまう外側の世界は、もう幻滅を通り越してどこ吹く風であったはずだ。特に幕末動乱から激動の時代を、腕一本で生き抜いてきた彼は周りにどんな風が吹いていようと、ひたむきに創造にうちこむ他なかった。その結果、光雲の作品が明治天皇を魅了し所望されたことは、人生最大の幸運であり、谷底から一気に山頂へ駆け上がるほど極端な形で、窮状から脱出できる転機となった。ただそれ以降、帝国美術院に所属し東京美術学校で教授職に就いているこの父親に対し、当惑と違和感を覚えていたのが息子の高村光太郎だ。これは多分、光雲の政府に対する面従腹背の態度が許せなかったのではないか。
どうも高村光雲と光太郎の親子には確執があったようだ。苦労人の父親が築いた財のお陰で、欧米への留学を果たせた高村光太郎だが、父から学んだ木彫の技を無視するように、西洋美術にのめり込んでいく。そして美術の分野だけでなく、西洋文明そのものを現地で実感して帰国するのだが、意外にも西洋文明に対する造詣が深まることで、それが相乗効果となり自国の日本文化への学識も深めていった。実際、般若心経を読解し、臨済禅もマスターしており、こうした面で父の光雲よりも仏教の知識は明らかに広範囲に渡っていたと思われる。
つまり高村光太郎の方が、高村光雲よりも知的で教養も豊かであったことは間違いない。そして彫刻技術では、この親子の作品の完成度はほぼ拮抗している。この辺り、光太郎は流石に光雲の息子だと思わせる才能の片鱗が窺えるからだ。しかしながら表現力ではやはり父親の光雲には及ばなかった。それはこの「聖徳太子坐像」を見れば一目瞭然だ。なぜなら光雲の手になるこの聖徳太子は、今にも「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」という生前の肉声を発しそうである。こうした鑑賞者へ何かを語りかけてくる魅力が、造形美の完成度に関係なく、光太郎の作品には希薄であった。
高村光太郎自身は主義主張や政治的発言を言葉で明言していたが、当時の帝国主義国家群の政府が掲げるプロパガンダをサポートしていた典型的な多数派の文化人だといえよう。これは片山潜や幸徳秋水や内村鑑三、それに与謝野晶子らが日露開戦に反戦の声をあげたのとは対照的だ。そして光太郎の父である光雲その人は反戦の声を上げなかったが、彼の仏性を宿した作品からは反戦の声が必然的に聞こえてくる。
古代日本の飛鳥時代に現れた聖徳太子は、為政者ではあっても、仏教を闇雲に政治利用しようとはしなかった。当時の国際情勢にも精通し、隋のような巨大帝国が思想的インフラとして仏教を中国大陸の統治に活用したことを参考にしても一切合切を踏襲したわけではない。特に晩年における仏教の慈悲の精神を礎とした社会福祉政策は、彼の死後に太子信仰を生み、その影響は身分の差を越えて広がり、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、民衆の目線で布教をはじめた法然や親鸞、それに道元や日蓮らに及んだ。そして近代の高村光雲に限らず、古代、中世、近世の時の流れの中で、仏師によって太子像は数多く造られてきた。
そんな数多ある太子像の中で、この「聖徳太子坐像」に特徴的なのは、壮年期を推察できる姿形でありながら、威厳を示す髭を蓄えていないことだ。これは恐らく作者高村光雲の意図であろう。髭を取り去ることで、権威や権力の側から聖徳太子を遊離させている。そして日露戦争後の世界に警鐘を鳴らしているようだ。つまり反戦や非戦への揺るがない意志表示である。
日露戦争の結果に関しては、両者痛み分けというのが、客観的事実であろう。日本もロシアも歴史の教科書には自国が勝利したと著述しているようだが、双方8万人以上の戦死者を出し、これだけの犠牲があっても歴然とした勝敗は着いていないのだから悲惨な結末である。恐らく高村光雲という人は、戦争の足音が聞こえてきたら、全力でそれを止める気概を持っていた。彼の場合、口にせずとも、創造する手がそう語らずにはおれなかったのだ。ただ残念なことに、日露戦争後も日本とロシアは第1次世界大戦に参戦してしまう。
ロシア帝国は第1次世界大戦中に、共産主義革命により内部から崩壊するが、大日本帝国が崩壊するのは高村光雲が鬼籍に入って以降、第2次世界大戦で連合国に敗北した時だ。敗戦を受容してからの高村光太郎は、それまでの戦争協力詩さえ書いていた国粋主義的姿勢から、憑きものが落ちたように一変した。その後の彼が創作した詩や、創造した彫刻には平和への希求が感じられる。そこにはかつて確執のあった父の光雲と和解する光太郎がいるようだ。
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