今回も前回に続いて、アメリカ大陸の話を少し書いてみたい。アメリカ大陸には一度だけ仕事で訪れたことがある。1988年に海外主張で渡米したのだ。季節は冬で約1週間ほどのネバダ州での滞在中、仕事がオフの日に、泊まっているホテルから観光バスに乗ってすぐ隣のアリゾナ州のグランドキャニオン国立公園に行った。そしてそこで遭遇した風景は生涯最高の絶景であった。多分、グランドキャニオンの世界に浸れたのは数時間程度だったと思うが、個人史的には貴重過ぎるほどの経験をさせて頂いた。
グランドキャニオンは1979年に世界遺産に登録されている為、そこへ行く前から期待を裏切ることなどまず有り得ないと確信していたのだが、良い意味でその予想を遥かに超えていた。もう30年以上前の話になってしまうが、意外と今更ながら脳裏に刻まれている場面は多い。当時の日本はバブル経済が本格化していく好景気に沸いており、現地で随分と羽振り良さ気な日本人の姿もよく見かけた。恐らくこの時代は、若い人でも海外旅行が趣味のような日本人さえいたと思われる。
当日は晴天で、宿泊先のラスベガスのホテル周辺にも雪は残っていたが、乗車したバスが国立公園に近づくにつれ、雪景色が自然と増えていく印象であった。そして国立公園に到着してから土産物屋さんで一息ついた後、今度は小型飛行機に乗って、空から鳥瞰する形で大峡谷を眺めた。当然のこと、これまで見たこともない異世界が地上に果てしなく広がっており、それはそれはとてつもないインパクトであった。まるで宇宙船に乗って他の惑星を探索しているような、あるいはタイムマシンに乗って太古の昔にタイムスリップしたような、そんな感覚である。しかし感動はそれだけでは終わらない。この衝撃をさらに凌駕する偉大な風景に出会えるのは、飛行機を降りて絶景となる峡谷の天辺の領域に降り立ったその時だ。
渡米する以前からそれなりの予備知識は備えていたように思う。実際、日本の学校教育の地理の授業で、アメリカ合衆国の話になると、有名な世界遺産でもあるグランドキャニオンは格好の的だし、ハリウッド映画の西部劇でも、大峡谷を背景にした映像が流れたら、グランドキャニオンを連想する人は多いはずだ。また自動車やジーンズ、それに煙草などのCM映像の背景にもグランドキャニオンらしき雄大な峡谷が現れたりする。そしてこうした非常にポジティブなイメージには、商品の購買意欲を高めるような魅力さえあるだろう。グランドキャニオン国立公園を訪れたこの日は、そんな先入観に心が占有されていた気もする。
ところがその先入観は見事に覆されてしまう。そこには異世界と違う、写真や映像の記憶に留めていた構図との相似形があっても、何と西部劇に象徴されるカウボーイの開拓者精神を肯定する要素が微塵も無かったからだ。むしろ人間社会や人類の文明に対して、悠然と沈黙を保っているような神秘性が漂っていた。立っている場所から数歩ほど前進して手摺に付いて見下ろすと、奈落の底のように深い谷が広がっている。そこから視線を少しずつ上げていけば、稀有壮大な崖と対峙することになるわけだが、表面を変幻自在な層で彩られたその崖の全貌が大き過ぎて、通常の遠近感覚の破綻を味わう羽目になる。遠過ぎる所にあるものがあまりにも巨大ゆえに違和感が生じるのだ。その違和感から逃れるように遥か遠方を見渡すと、崖で形成された地平線の上で空と山脈が霞むようにして溶け込んでいる。この視線を下から上へ上げていく眺望の過程で、心が浄化されていくような感覚に見舞われた。
その後はゆっくりと辺りを見回しながら、視界に映る神聖な景色を十二分に堪能していた。そして凍てつくような冷たい寒気にも、そこにしかない清浄な気配が感じられた。正直な話、既成概念を崩壊させてしまう想像もつかない風景が眼前に広がっており、ひょっとするとグランドキャニオンを取材したドキュメンタリー番組を予め視聴する機会があったとしたら、感じ方も多少は違ったのかもしれない。しかしながら1980年代当時の旅行雑誌の写真や、映画とCMの映像にはグランドキャニオンへの脚色が濃厚に施されている事実がこの体験から理解できた。そしてその脚色された偶像には無いものが、現実のグランドキャニオンには確かに存在していたのだ。それは人知を超えた崇高さである。
そもそもグランドキャニオンの歴史は、コロラド川の浸食作用が今から400万年の時を遡って始まった辺りからだ。しかもその浸食によって露わになった地層には、数10億年前の生物の化石も含まれている。つまりこの大峡谷は、人類史が遥か遠く及ばない原始の生命体をも知っているのである。そしてその広大過ぎるほどの聖なる地形に最大級の敬意を払っていたのは、この周辺で生活していたネイティブアメリカンの先住民の人々であった。彼らは文明人ではなかったが、現代社会への啓示となる偉大な知恵を身につけている。
戦争や疫病といった災厄が蔓延する現代において、その多くは環境破壊も含めて人災が原因である。つまり人間がつくった問題によって、地球に暮らす全生命が大変な迷惑を被ってしまった。そして人間とてこの全生命の一員である以上、問題解決に努力するべきなのだ。また問題を起こしてしまったのが人間であるがゆえに、その問題を解決することが人間にできないはずがない。この未曾有の危機の時代に、農耕や遊牧などの文明を築けなかったネイティブアメリカンの人々の知恵は貴重な存在価値を有する。
「私たちが暮らす土地は、過去の先祖から受け継いだものではなく、未来の子孫から借りているものである」
この彼らの精神性から生まれた教訓こそがその知恵である。マヤやインカ、それにアステカといった農耕文明の帝国臣民ではなかった先住民の人々は、文字や貨幣とも無縁であり、土地を切り拓いて開発する術を持たないがゆえに、こうした知恵を持っているのだ。そしてこの知恵から発想すれば、戦争や環境破壊といった忌まわしい人災は、きっと防げるはずである。
グランドキャニオンの静謐は、征服や侵略といった愚行を英雄志向で誤魔化すことを許さない沈黙だ。そこを訪れると決して侵されることのない聖地にいる実感を覚えてしまうが、同時にその崇高な外側の世界にゆったり包まれていると、そのような聖地が内側の心の中にも存在することに気付かされる。そしてこれは個人的な発見になってしまうのだが、グランドキャニオンの風景は、レオナルド•ダ•ヴィンチが描いた最高傑作「モナ•リザ」の女性の肖像の背景に似ていることも最後に一言つけ加えておきたい。
グランドキャニオンは1979年に世界遺産に登録されている為、そこへ行く前から期待を裏切ることなどまず有り得ないと確信していたのだが、良い意味でその予想を遥かに超えていた。もう30年以上前の話になってしまうが、意外と今更ながら脳裏に刻まれている場面は多い。当時の日本はバブル経済が本格化していく好景気に沸いており、現地で随分と羽振り良さ気な日本人の姿もよく見かけた。恐らくこの時代は、若い人でも海外旅行が趣味のような日本人さえいたと思われる。
当日は晴天で、宿泊先のラスベガスのホテル周辺にも雪は残っていたが、乗車したバスが国立公園に近づくにつれ、雪景色が自然と増えていく印象であった。そして国立公園に到着してから土産物屋さんで一息ついた後、今度は小型飛行機に乗って、空から鳥瞰する形で大峡谷を眺めた。当然のこと、これまで見たこともない異世界が地上に果てしなく広がっており、それはそれはとてつもないインパクトであった。まるで宇宙船に乗って他の惑星を探索しているような、あるいはタイムマシンに乗って太古の昔にタイムスリップしたような、そんな感覚である。しかし感動はそれだけでは終わらない。この衝撃をさらに凌駕する偉大な風景に出会えるのは、飛行機を降りて絶景となる峡谷の天辺の領域に降り立ったその時だ。
渡米する以前からそれなりの予備知識は備えていたように思う。実際、日本の学校教育の地理の授業で、アメリカ合衆国の話になると、有名な世界遺産でもあるグランドキャニオンは格好の的だし、ハリウッド映画の西部劇でも、大峡谷を背景にした映像が流れたら、グランドキャニオンを連想する人は多いはずだ。また自動車やジーンズ、それに煙草などのCM映像の背景にもグランドキャニオンらしき雄大な峡谷が現れたりする。そしてこうした非常にポジティブなイメージには、商品の購買意欲を高めるような魅力さえあるだろう。グランドキャニオン国立公園を訪れたこの日は、そんな先入観に心が占有されていた気もする。
ところがその先入観は見事に覆されてしまう。そこには異世界と違う、写真や映像の記憶に留めていた構図との相似形があっても、何と西部劇に象徴されるカウボーイの開拓者精神を肯定する要素が微塵も無かったからだ。むしろ人間社会や人類の文明に対して、悠然と沈黙を保っているような神秘性が漂っていた。立っている場所から数歩ほど前進して手摺に付いて見下ろすと、奈落の底のように深い谷が広がっている。そこから視線を少しずつ上げていけば、稀有壮大な崖と対峙することになるわけだが、表面を変幻自在な層で彩られたその崖の全貌が大き過ぎて、通常の遠近感覚の破綻を味わう羽目になる。遠過ぎる所にあるものがあまりにも巨大ゆえに違和感が生じるのだ。その違和感から逃れるように遥か遠方を見渡すと、崖で形成された地平線の上で空と山脈が霞むようにして溶け込んでいる。この視線を下から上へ上げていく眺望の過程で、心が浄化されていくような感覚に見舞われた。
その後はゆっくりと辺りを見回しながら、視界に映る神聖な景色を十二分に堪能していた。そして凍てつくような冷たい寒気にも、そこにしかない清浄な気配が感じられた。正直な話、既成概念を崩壊させてしまう想像もつかない風景が眼前に広がっており、ひょっとするとグランドキャニオンを取材したドキュメンタリー番組を予め視聴する機会があったとしたら、感じ方も多少は違ったのかもしれない。しかしながら1980年代当時の旅行雑誌の写真や、映画とCMの映像にはグランドキャニオンへの脚色が濃厚に施されている事実がこの体験から理解できた。そしてその脚色された偶像には無いものが、現実のグランドキャニオンには確かに存在していたのだ。それは人知を超えた崇高さである。
そもそもグランドキャニオンの歴史は、コロラド川の浸食作用が今から400万年の時を遡って始まった辺りからだ。しかもその浸食によって露わになった地層には、数10億年前の生物の化石も含まれている。つまりこの大峡谷は、人類史が遥か遠く及ばない原始の生命体をも知っているのである。そしてその広大過ぎるほどの聖なる地形に最大級の敬意を払っていたのは、この周辺で生活していたネイティブアメリカンの先住民の人々であった。彼らは文明人ではなかったが、現代社会への啓示となる偉大な知恵を身につけている。
戦争や疫病といった災厄が蔓延する現代において、その多くは環境破壊も含めて人災が原因である。つまり人間がつくった問題によって、地球に暮らす全生命が大変な迷惑を被ってしまった。そして人間とてこの全生命の一員である以上、問題解決に努力するべきなのだ。また問題を起こしてしまったのが人間であるがゆえに、その問題を解決することが人間にできないはずがない。この未曾有の危機の時代に、農耕や遊牧などの文明を築けなかったネイティブアメリカンの人々の知恵は貴重な存在価値を有する。
「私たちが暮らす土地は、過去の先祖から受け継いだものではなく、未来の子孫から借りているものである」
この彼らの精神性から生まれた教訓こそがその知恵である。マヤやインカ、それにアステカといった農耕文明の帝国臣民ではなかった先住民の人々は、文字や貨幣とも無縁であり、土地を切り拓いて開発する術を持たないがゆえに、こうした知恵を持っているのだ。そしてこの知恵から発想すれば、戦争や環境破壊といった忌まわしい人災は、きっと防げるはずである。
グランドキャニオンの静謐は、征服や侵略といった愚行を英雄志向で誤魔化すことを許さない沈黙だ。そこを訪れると決して侵されることのない聖地にいる実感を覚えてしまうが、同時にその崇高な外側の世界にゆったり包まれていると、そのような聖地が内側の心の中にも存在することに気付かされる。そしてこれは個人的な発見になってしまうのだが、グランドキャニオンの風景は、レオナルド•ダ•ヴィンチが描いた最高傑作「モナ•リザ」の女性の肖像の背景に似ていることも最後に一言つけ加えておきたい。
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