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ゴーギャンにとってのアリスカン

2018-03-01 16:18:14 | 日記
今回紹介するのは、前回とりあげさせてもらった「ひまわり」の作者ゴッホの友人ゴーギャンが描いた「アリスカンの並木路、アルル」である。この絵は「ひまわり」と同様、損保ジャパン日本興亜美術館に所蔵されており、東京の新宿へ足を運べばこの美術館で常設展示作品として鑑賞することができる。

ゴーギャンの絵の中では、タヒチへ渡ってから描いた大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」が大変有名だが、私が彼の作品の中で一番好きなのは、この「アリスカンの並木路、アルル」である。陽光に満ちた美しい風景。思わずそこを歩きたくなるような心地良さが感じられる並木道。小鳥の囀りが聞こえてきそうな穏やかさ。そして色彩は鮮やかなのに、どこか潔い静謐さが漂う。それは並木道の奥に建っているのが古代の石棺だからだろうか。

ゴーギャンがこの絵を描いていた頃、ゴッホもまた同じ場所で見た風景を描いているのだが、二人が背中合わせで描いていたものもあり、そういう場合に視点は180度近く違ってくる。そしてそれはこのアリスカンという主題から見出した意味もどうやら違っていたようだ。その違いを考察するにはアリスカンの歴史も踏まえた方が分かり易いので、暫しそれについて述べたい。

アリスカンは石棺が並んでいる墓地で、南フランスの都市アルルに属し、古代ローマ帝国がイタリア半島から領土を拡大していく段階における軍用道路として機能したアウレリア街道の途上に存在する。このような道路の脇に設置された墓は兵卒のものであることが多い。謂わば戦死者の多くがここに眠っていたわけだ。しかも膨大な死者達は宗教的には古代ローマの多神教の信者か、古代ローマに侵略された側の土着の宗教の信者である。つまりキリスト教からみると異教徒と呼ばれる人々であった。ところが古代ローマ帝国においてキリスト教の布教が広まりだすと、当初は草の根の弱い運動が、敬虔な信者たちの残虐な迫害にも屈しない姿勢によって脈々とした流れをつくり、帝国内の人心を大いに揺り動かしてゆく。そして最高権力者の皇帝をも含めた国家権力が、弾圧ではなくキリスト教の懐柔と利用へと転換を図ると、あろうことか4世紀末には巨大な古代ローマ帝国の国教にまでなってしまうのだ。それを機に墓地としてのアリスカンの定義にも変化が現れる。特に4世紀初頭に斬首という形で殉教したアルルの聖人ジュネがここに葬られてから、歴代のアルルの大司教がこのアリスカン墓地に眠ることを望み、それに追随するように多くのキリスト教徒がここへの埋葬を希望するようになった。以降、キリスト教の色合いが濃くなっていき、中世にはこの地に多くの教会も建てられている。しかしヨーロッパは今でこそEUに象徴される平和の大陸になりつつあるが、かつては戦争の大陸と形容されるほどに戦禍の絶えない広大な領域であった。この為、長い年月をかけて目まぐるしく景観が変わってしまったであろうことは想像に難くない。ただそれもゴッホやゴーギャンがアルルを訪れた、産業革命以降の近代になって漸く落ち着いたようである。

ゴーギャンが描いたアリスカンとゴッホの描いたアリスカンの大きな違いは、二人の歩んできた人生が芸術という共通点以外において、かなり異なっていたことに起因しているようだ。まずゴッホは社会に出てからは、画商に勤めたり教師や書店員として働いてもいるが上手くいかず、聖職者を志すも神学界の理想と現実の壁にぶつかって挫折し、弟からの経済的援助を受けて画家の活動を本格的にはじめた人である。一方、ゴーギャンの社会人としてのスタートは商船での水先人見習いであり、そこで数年間世界中を航海した後、フランス海軍に入隊し2年間の軍役の後は株式仲買人を10年以上続けて、その間に結婚し5人の子供を授って裕福な家庭を築いている。ゴーギャンはこのような家族と仕事に恵まれた生活の中で、余暇に絵を描くようになった人である。ただ、パリの株式市場の大暴落により家族は経済的打撃を受け、そこから世俗的成功を勝ち得ていたゴーギャンの人生の転落がはじまるのだが、それと反比例するように絵の作品制作は充実していく。

ゴッホのアリスカンの絵に描かれている路は、弱き者、貧しき者を救うキリスト教の理想における天国への路である。そして路の左右の端に置かれている棺には死者が眠っているわけだが、この路を歩いたり立ち止まったりしている人々は巡礼を行っており、つまり死んだ者も生きている者も意識を共有しているように見受けられる。それは神への全幅の信頼である。それゆえ、ゴッホの絵画世界には神という存在への迷いがない。現実のゴッホは教会という宗教組織からは見捨てられたが、神には自分は見捨てられてはいないという確信があるのだ。

ではゴーギャンはどうなのか。同じ西洋人でも神への信仰心という点では、ゴーギャンはゴッホには遠く及ばないだろう。ゴーギャンがゴッホに魅かれたのは、自分には無いゴッホの直情的な純粋さにあったようだ。これは福音伝道学校にゴッホが籍を置いていた時の逸話だが、貧困層の人々へ伝道する際に彼はその貧困層の人々と同化しようとした。ところがキリスト者として貧しい生活を送りたいというその熱意が学校側には受け入れて貰えずに決別したと云う。これはゴーギャンには不可能な極端過ぎる行動だったはずである。ゴーギャンは勤め人として社会的に成功した経験があり、ゴッホよりも地に足が着いていた。それは絵にも明確に表れており、ゴーギャンの絵の方が現実世界をリアルに捉えている。そしてそのリアルさとは、描く対象の写実性ではない。それを象徴するかのように絵の中の形態と色彩は写真のように精巧なリアリズムとは異質の調和を保っている。そこから見えてくるのは、人間社会の悲喜劇や不条理、西洋文明への批判、そして原始への回帰といった重層的かつ多面的な主題である。あの代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」にもそれは如実に感じられるし、この「アリスカンの並木路、アルル」においても同様だ。ゴッホは社会との断絶感を味わい尽くしたような人生であったが、対照的にゴーギャンは社会的適応能力が高い分、酸いも甘いも噛み分けた上でゴッホよりも社会に対し鋭く批判的な目を持ち得ていたようだ。

「アリスカンの並木路、アルル」の落葉に溢れた秋の静かな風景には誰もいない。もし誰かがいるとしたら、それは過去に葬られた姿の見えない、此処にはいない何処かにいる人々である。ゴーギャンの母国フランスは、古代にはガリアと呼ばれ、ローマ帝国の版図に組み入れられる以前は、頑強に真っ向から抵抗を続けていたことでも知られる。先に述べたように、このアリスカンという石棺には異文化を制圧する侵略戦争の犠牲者の多くも眠っていた。恐らくゴーギャンがアリスカンを描く対象に選んだ理由はここにある。従ってキリスト教の神を称える威光はない。むしろ異文化への深い尊重が感じられる。19世紀に世界中を航海した彼は、キリスト教を利用したヨーロッパ列強の植民地主義の全貌を痛切に把握していたのだ。そしてこの美しい自然の中の無人の静けさは、富める者にも貧しき者にも必ず死が訪れることを暗示している。そこにはこの世を支配する権力者への批判も感じられるが、しかしだから世界を変えて欲しいとは、声高にこの絵は語りかけてはいない。そこにあるのは、これが私が見て感じ創造した世界だ、それでこれを見て感じたあなたはどうなのか?というゴーギャンからの問いかけである。

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