先月にソ連の最初で最後の大統領ミハイル・ゴルバチョフが他界された。彼は歴史の流れを変えて偉大な業績を残している。それは20世紀にベルリンの壁を開放し東西の冷戦を終結させたことだ。無論この冷戦の終結には、ゴルバチョフだけではなく、東西両陣営の首脳たちや、命がけで行動した民衆も含まれる。しかしこの偉業の中心人物はやはりゴルバチョフその人であろう。そしてこの時、国際社会はまさか東側世界の共産主義圏のトップが、米ソの冷戦を終わらせる原動力になろうなどとは思いもよらなかったはずだ。まだゴルバチョフの名前も聞こえてこない1970年代後半に高校生だった私は、世界史の授業で先生曰く、ベルリンの壁が20世紀に壊れることはないし、もしそんなことが起こるとすれば、21世紀の遠い未来に西側の資本主義諸国が主導して事を成すはずだと力説していた。ところが現実はそうはならなかった。そして恐らくこれは20世紀の歴史家の殆どが予測できなかったことではないか。ゴルバチョフの訃報に接した米国のバイデン大統領も、驚くべきビジョンを持った人物であったと述べている。
ゴルバチョフがソ連の最高指導者、共産党書記長に就任したのは1985年のことだ。彼はブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコといった高齢の前任者がほぼ1年ごとに相次いで亡くなった後、東側世界の超大国ソ連の頂点に立った。この時、全世界はソ連の書記長が高齢の70代からいきなり50代に代わったこともあり、大きなサプライズとして注目したものである。そしてクレムリンのひな壇の中央に現れたゴルバチョフは非常に個性豊かなオーラを放っていたように思う。しかもそれは西側世界の超大国の米国のレーガン大統領とは全く違う個性であった。
当時のレーガン大統領はソ連を「悪の帝国」だと揶揄し、国策として軍拡路線を推進していた。ゴルバチョフは彼にとって最初の米ソ首脳会談において、レーガンを恐竜のように恐ろしい人だと評している。しかしこれはフランスのミッテラン大統領や西ドイツのコール首相もレーガンほどではないにせよ、強面のリーダーの外見を必要十分条件のようにして備えていたと思う。ところがゴルバチョフにはそうした強い威厳よりも、人懐っこい親近感が自然体で全身から漂っていたのだ。そしてそれはこれまでのソ連の最高指導者には全くないキャラクターであった。しかもそんな彼が掲げた政策はソ連どころかロシア史にもなかったような内容で、情報公開や新思考外交を展開し、中央集権的な共産主義体制下にあっても、情報統制による計画経済が機能不全に陥っていた国家の改革を積極的に進めていった。
私はゴルバチョフのエピソードで心底びっくりさせられたことが2つある。1つは彼がソ連の共産党書記長になる前に、英国を外交で訪問した際にサッチャー首相へした質問である。それはどうやって大英帝国を解体したのかというものだ。かつて19世紀は大英帝国の世紀とよばれたほど、英国は隆盛を極めていた時代があった。その支配領域は、ヨーロッパ、アフリカ、中東、アジア、アメリカ、オセアニアに及び、大英帝国は日の沈まない広大な世界を謳歌していたわけである。しかし第2次世界大戦に勝利した連合国の主軸ではあっても、大き過ぎてコントロールが効かない状態に陥っていた。この為、終戦と共に植民地の独立を容認する形で縮小の道を歩んでいくのだが、ゴルバチョフはこの歴史的経緯に好感を持っていたようである。そして彼がこの数年後にコントロールするはめになる超大国ソ連は米国と対抗する形で軍拡路線を突き進み、軍事的影響範囲は衛星国の東欧のみならずアジアやアフリカ、中東それに中南米にも及んでいた。恐らく彼はこの時点で、ソ連の縮小の図面を頭の中で描いていたはずだ。これは政治家としては珍しいほど賢明な発想である。なぜなら人の幸せとは、本来その人が暮らす国の領土の広さに比例しないのだから。ソ連の崩壊を20世紀最大の地政学的悲劇だと断言した今のロシアのプーチン大統領とは真逆の発想であり、まさに驚くべきビジョンである。
もう1つのエピソードはゴルバチョフがソ連共産党書記長の頃に、連邦の構成国であるバルト3国のリトアニアを訪問した時のことだ。ニュースの映像を視聴して確認できたのだが、街頭の集会でゴルバチョフが市民へ向けて、リトアニアはポーランドやハンガリーのような衛星国ではなくソ連の構成国なのだから連邦に留まりましょうと語りかけたのに対し、市民の女性の1人がそれでも私たちは独立したいのですと訴えていた。これは双方が簡単に妥協できない難しい問題なのだが、興味深いのはゴルバチョフも市民の女性もこの上なく素直な笑顔で、実に楽しそうに喜んで対話をしていたことである。そこには意見の相違はあっても明らかに信頼関係が存在していた。正直、私は日本の総理大臣が、こんな畏まった礼節や上から目線を取り払って市民と対話する姿は目にしたことがない。そしてこれはゴルバチョフが中心になって進めたソ連政府のペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)の成果であり、ソ連社会にも民主的に自由にものが言える場が生まれていた証拠である。
ゴルバチョフの偉業は間違いなくこれからも語り継がれていくことになると思われるが、生前の彼の評価は、ロシア国内と国外でほぼ正反対といってよいほどの賛否両論に分かれた。国外では米ソが軍拡路線から軍縮路線へと舵を切り、アフガニスタンからソ連軍を撤退させ、ベルリンの壁を壊して開放し、長く続いた冷戦を終わらせた偉大な政治家だとの印象が強い。その一方、国内ではソ連を崩壊させた張本人であり、それによって世界の超大国は米国だけになってしまい、ロシア人は大国意識やプライドを著しく傷つけられたという意見が大半を占める。この見方のせいで、ゴルバチョフの内政における改革も極めて不評であった。経済的には製造業を重視した生産体制の再建を進めており、悪い政策だとは思えない。第2次世界大戦後に敗戦国の日本と西ドイツが経済復興を実現できたのも製造業が重要な役割を果たしたからだし、ましてや1980年代はまだインターネットも普及していない。要は不動産や金融でバブル経済を演出するような方向性ではなく、地道で堅実な路線であった。しかしながら国民の創意工夫が反映される形にならなかったのは、中央集権的な官僚主義に固執して利権を手放したくない改革に反対する勢力の妨害があったのではないか。またゴルバチョフはソ連よりも早く経済解放を実施した中国との国交も回復させている。そして実のところロシアの経済が大きく落ち込むのはソ連が消えて久しい1998年のロシア通貨ルーブルの大暴落であり、これはエリツィンがロシアの大統領の時期のことなのだ。それでも最高指導者としての人気はゴルバチョフの場合、エリツィンや今のプーチンには到底及ばないのが現実だ。しかも今年のウクライナ侵攻による戦時下にあってなお、プーチン大統領の支持率は70%を超えている。しかしこれを理由にロシアの国民性が、国家のリーダーに独裁者を望む傾向が強いと解釈するのはあまりにも性急ではないか。なぜなら古今東西、独裁者に対する国民の支持率が高いのは当たり前だからだ。つまり捏造でも支持率が高いからこそ独裁者なのである。それゆえ、私たちは独裁者を排除する以前に、まず独裁者が登場しない社会を目指すべきである。さらに付け加えるならば、民主主義の社会で独裁者がいないケースでも政府が独裁的な体制を敷かないよう、権力を確りとチェックし続けるべきなのだ。
政治家としてのゴルバチョフに特徴的だったのは、彼が多くの政治家にありがちな強者のアピールをしなかったこと、つまり勝者や英雄のように振舞わなかったことと、敵をつくろうとしなかったことだ。これは彼が独裁者になりようがない人物だったことの証である。そして彼のそのような政治的スタイルは、生来の人間性だけではなく、生涯連れ添ったライサ夫人の影響も多分にあったようだ。実はゴルバチョフ夫妻は共にモスクワ大学出身で学生結婚である。ゴルバチョフは法学専攻で、ライサ夫人は哲学専攻であったという。そしてゴルバチョフは青年期から、ソ連国内の法律と現実社会の矛盾に悩んでいたらしい。これは多分ライサ夫人も同様であろう。
若者というのは理想と現実のギャップに悩むものだが、この若きゴルバチョフ夫妻の姿は、ある意味で非常に興味深い。なぜなら20世紀、冷戦が厳然と固定化していた時代、鉄のカーテンに隠されて共産主義圏の東側世界の実態がはっきりと見えなかった頃、そこは自由がなくとも過酷な競争など存在せず、国民は平等で福祉が充実した牧歌的世界だと想像されていた面もあった。それゆえに理想郷を求めるようにして、西側世界から東側世界へ亡命する人々も出てきたほどだ。この為、共産主義の長所を取り入れるようにしてスウェーデンのような北欧諸国や、揺り籠から墓場までを謳い文句にした英国は社会福祉を充実させる政策を重視していた。しかしながらソ連を含めた東側世界の現実は理想とは裏腹に厳しかった。
ソ連の消滅と共に国際政治の表舞台から去ったゴルバチョフがロシアに蒔いた民主化の種は、残念ながら健全に芽吹き花が満開に咲くような楽観的な展開にはならなかった。しかし今のウクライナ侵攻の戦禍においても、政府のマインドコントロールや圧力をものともせず、反戦運動をはじめたロシアの人々の勇気は大変なものである。病に苦しみつつ忍び寄る死を感じていたゴルバチョフもウクライナ侵攻には、反対を表明していた。そして固い大地に水が染み込むようにして広がりだした反戦の運動の輪は、彼の意志を真摯に継いでいるとも云える。
こうした民衆の抵抗を見て感じるのは、2010年頃から北アフリカや中東で広がったアラブの春とよばれた民主化運動との相似である。反政府デモから端を発したこの流れは、ドミノ式にチュニジア、エジプト、リビアといった長期独裁政権をドミノ式に倒壊させている。あの時に、ニュース映像でインタビューを受けた中年男性の言葉が今も私は忘れられない。彼は、強い人が支配しても国家は良くならなかった。強い側ではなく正しい側につくのがアラーの神の教えだ、と述べていた。これは弱い者が強い者に憧れ、強い者に感情移入することで、強い者と一体化できた錯覚に陥り、自らの厳しい現状が見えなくなってしまうのは危険だと警告している。今やこの世界の富はその約40%をほんの1%ほどの強者が握り締めているのが悲しい現実だ。つまり私たち人類の99%は負け組の弱者なのだ。恐らく勝ち組の中には、プーチンのような独裁的な国家元首たちは入っているはずである。しかも酷いことにその1%の強者たちが、ウクライナ戦争でも暴利を貪っていることは間違いない。
ゴルバチョフはソ連の規模を縮小しても崩壊までは望んではいなかった。むしろ連邦の構成国が相互扶助で成り立つ共同体を目指していたようだ。それは彼が述べたソ連がヨーロッパ諸国と共生する欧州共通の家というビジョンからも想像できる。それが冷戦の終結した後のゴルバチョフ夫妻の夢だったのかもしれない。そこでは共産主義も資本主義も、それぞれの要素を人々の幸福度が上がる形で反映させる、搾取や戦乱のない従って酷い格差も生まない、最善に少しづづ近づく次善の理想的社会だったのではないか。これが実現していたらソ連崩壊後の民族紛争は起きなかったかもしれない。
1990年にノーベル平和賞も受賞していたミハイル・ゴルバチョフの葬儀は、9月3日に国葬ではない形でモスクワの労働組合会館で行われた。数千人の市民が参列し、彼の遺体はノボデヴッチ墓地のライサ夫人の隣に埋葬されている。世界の潮流を大きく変えた中心人物としては地味な葬儀だったかもしれないが、彼が豪華な国葬を生前に望んでいたとは到底思えない。ライサ夫人は1999年に他界しており、夫とは20年以上の時を経て、同じ土の下で隣り合い眠ることで再会できた。最愛の人ミハイル•ゴルバチョフへお帰りなさいの心境であろう。
ゴルバチョフがソ連の最高指導者、共産党書記長に就任したのは1985年のことだ。彼はブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコといった高齢の前任者がほぼ1年ごとに相次いで亡くなった後、東側世界の超大国ソ連の頂点に立った。この時、全世界はソ連の書記長が高齢の70代からいきなり50代に代わったこともあり、大きなサプライズとして注目したものである。そしてクレムリンのひな壇の中央に現れたゴルバチョフは非常に個性豊かなオーラを放っていたように思う。しかもそれは西側世界の超大国の米国のレーガン大統領とは全く違う個性であった。
当時のレーガン大統領はソ連を「悪の帝国」だと揶揄し、国策として軍拡路線を推進していた。ゴルバチョフは彼にとって最初の米ソ首脳会談において、レーガンを恐竜のように恐ろしい人だと評している。しかしこれはフランスのミッテラン大統領や西ドイツのコール首相もレーガンほどではないにせよ、強面のリーダーの外見を必要十分条件のようにして備えていたと思う。ところがゴルバチョフにはそうした強い威厳よりも、人懐っこい親近感が自然体で全身から漂っていたのだ。そしてそれはこれまでのソ連の最高指導者には全くないキャラクターであった。しかもそんな彼が掲げた政策はソ連どころかロシア史にもなかったような内容で、情報公開や新思考外交を展開し、中央集権的な共産主義体制下にあっても、情報統制による計画経済が機能不全に陥っていた国家の改革を積極的に進めていった。
私はゴルバチョフのエピソードで心底びっくりさせられたことが2つある。1つは彼がソ連の共産党書記長になる前に、英国を外交で訪問した際にサッチャー首相へした質問である。それはどうやって大英帝国を解体したのかというものだ。かつて19世紀は大英帝国の世紀とよばれたほど、英国は隆盛を極めていた時代があった。その支配領域は、ヨーロッパ、アフリカ、中東、アジア、アメリカ、オセアニアに及び、大英帝国は日の沈まない広大な世界を謳歌していたわけである。しかし第2次世界大戦に勝利した連合国の主軸ではあっても、大き過ぎてコントロールが効かない状態に陥っていた。この為、終戦と共に植民地の独立を容認する形で縮小の道を歩んでいくのだが、ゴルバチョフはこの歴史的経緯に好感を持っていたようである。そして彼がこの数年後にコントロールするはめになる超大国ソ連は米国と対抗する形で軍拡路線を突き進み、軍事的影響範囲は衛星国の東欧のみならずアジアやアフリカ、中東それに中南米にも及んでいた。恐らく彼はこの時点で、ソ連の縮小の図面を頭の中で描いていたはずだ。これは政治家としては珍しいほど賢明な発想である。なぜなら人の幸せとは、本来その人が暮らす国の領土の広さに比例しないのだから。ソ連の崩壊を20世紀最大の地政学的悲劇だと断言した今のロシアのプーチン大統領とは真逆の発想であり、まさに驚くべきビジョンである。
もう1つのエピソードはゴルバチョフがソ連共産党書記長の頃に、連邦の構成国であるバルト3国のリトアニアを訪問した時のことだ。ニュースの映像を視聴して確認できたのだが、街頭の集会でゴルバチョフが市民へ向けて、リトアニアはポーランドやハンガリーのような衛星国ではなくソ連の構成国なのだから連邦に留まりましょうと語りかけたのに対し、市民の女性の1人がそれでも私たちは独立したいのですと訴えていた。これは双方が簡単に妥協できない難しい問題なのだが、興味深いのはゴルバチョフも市民の女性もこの上なく素直な笑顔で、実に楽しそうに喜んで対話をしていたことである。そこには意見の相違はあっても明らかに信頼関係が存在していた。正直、私は日本の総理大臣が、こんな畏まった礼節や上から目線を取り払って市民と対話する姿は目にしたことがない。そしてこれはゴルバチョフが中心になって進めたソ連政府のペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)の成果であり、ソ連社会にも民主的に自由にものが言える場が生まれていた証拠である。
ゴルバチョフの偉業は間違いなくこれからも語り継がれていくことになると思われるが、生前の彼の評価は、ロシア国内と国外でほぼ正反対といってよいほどの賛否両論に分かれた。国外では米ソが軍拡路線から軍縮路線へと舵を切り、アフガニスタンからソ連軍を撤退させ、ベルリンの壁を壊して開放し、長く続いた冷戦を終わらせた偉大な政治家だとの印象が強い。その一方、国内ではソ連を崩壊させた張本人であり、それによって世界の超大国は米国だけになってしまい、ロシア人は大国意識やプライドを著しく傷つけられたという意見が大半を占める。この見方のせいで、ゴルバチョフの内政における改革も極めて不評であった。経済的には製造業を重視した生産体制の再建を進めており、悪い政策だとは思えない。第2次世界大戦後に敗戦国の日本と西ドイツが経済復興を実現できたのも製造業が重要な役割を果たしたからだし、ましてや1980年代はまだインターネットも普及していない。要は不動産や金融でバブル経済を演出するような方向性ではなく、地道で堅実な路線であった。しかしながら国民の創意工夫が反映される形にならなかったのは、中央集権的な官僚主義に固執して利権を手放したくない改革に反対する勢力の妨害があったのではないか。またゴルバチョフはソ連よりも早く経済解放を実施した中国との国交も回復させている。そして実のところロシアの経済が大きく落ち込むのはソ連が消えて久しい1998年のロシア通貨ルーブルの大暴落であり、これはエリツィンがロシアの大統領の時期のことなのだ。それでも最高指導者としての人気はゴルバチョフの場合、エリツィンや今のプーチンには到底及ばないのが現実だ。しかも今年のウクライナ侵攻による戦時下にあってなお、プーチン大統領の支持率は70%を超えている。しかしこれを理由にロシアの国民性が、国家のリーダーに独裁者を望む傾向が強いと解釈するのはあまりにも性急ではないか。なぜなら古今東西、独裁者に対する国民の支持率が高いのは当たり前だからだ。つまり捏造でも支持率が高いからこそ独裁者なのである。それゆえ、私たちは独裁者を排除する以前に、まず独裁者が登場しない社会を目指すべきである。さらに付け加えるならば、民主主義の社会で独裁者がいないケースでも政府が独裁的な体制を敷かないよう、権力を確りとチェックし続けるべきなのだ。
政治家としてのゴルバチョフに特徴的だったのは、彼が多くの政治家にありがちな強者のアピールをしなかったこと、つまり勝者や英雄のように振舞わなかったことと、敵をつくろうとしなかったことだ。これは彼が独裁者になりようがない人物だったことの証である。そして彼のそのような政治的スタイルは、生来の人間性だけではなく、生涯連れ添ったライサ夫人の影響も多分にあったようだ。実はゴルバチョフ夫妻は共にモスクワ大学出身で学生結婚である。ゴルバチョフは法学専攻で、ライサ夫人は哲学専攻であったという。そしてゴルバチョフは青年期から、ソ連国内の法律と現実社会の矛盾に悩んでいたらしい。これは多分ライサ夫人も同様であろう。
若者というのは理想と現実のギャップに悩むものだが、この若きゴルバチョフ夫妻の姿は、ある意味で非常に興味深い。なぜなら20世紀、冷戦が厳然と固定化していた時代、鉄のカーテンに隠されて共産主義圏の東側世界の実態がはっきりと見えなかった頃、そこは自由がなくとも過酷な競争など存在せず、国民は平等で福祉が充実した牧歌的世界だと想像されていた面もあった。それゆえに理想郷を求めるようにして、西側世界から東側世界へ亡命する人々も出てきたほどだ。この為、共産主義の長所を取り入れるようにしてスウェーデンのような北欧諸国や、揺り籠から墓場までを謳い文句にした英国は社会福祉を充実させる政策を重視していた。しかしながらソ連を含めた東側世界の現実は理想とは裏腹に厳しかった。
ソ連の消滅と共に国際政治の表舞台から去ったゴルバチョフがロシアに蒔いた民主化の種は、残念ながら健全に芽吹き花が満開に咲くような楽観的な展開にはならなかった。しかし今のウクライナ侵攻の戦禍においても、政府のマインドコントロールや圧力をものともせず、反戦運動をはじめたロシアの人々の勇気は大変なものである。病に苦しみつつ忍び寄る死を感じていたゴルバチョフもウクライナ侵攻には、反対を表明していた。そして固い大地に水が染み込むようにして広がりだした反戦の運動の輪は、彼の意志を真摯に継いでいるとも云える。
こうした民衆の抵抗を見て感じるのは、2010年頃から北アフリカや中東で広がったアラブの春とよばれた民主化運動との相似である。反政府デモから端を発したこの流れは、ドミノ式にチュニジア、エジプト、リビアといった長期独裁政権をドミノ式に倒壊させている。あの時に、ニュース映像でインタビューを受けた中年男性の言葉が今も私は忘れられない。彼は、強い人が支配しても国家は良くならなかった。強い側ではなく正しい側につくのがアラーの神の教えだ、と述べていた。これは弱い者が強い者に憧れ、強い者に感情移入することで、強い者と一体化できた錯覚に陥り、自らの厳しい現状が見えなくなってしまうのは危険だと警告している。今やこの世界の富はその約40%をほんの1%ほどの強者が握り締めているのが悲しい現実だ。つまり私たち人類の99%は負け組の弱者なのだ。恐らく勝ち組の中には、プーチンのような独裁的な国家元首たちは入っているはずである。しかも酷いことにその1%の強者たちが、ウクライナ戦争でも暴利を貪っていることは間違いない。
ゴルバチョフはソ連の規模を縮小しても崩壊までは望んではいなかった。むしろ連邦の構成国が相互扶助で成り立つ共同体を目指していたようだ。それは彼が述べたソ連がヨーロッパ諸国と共生する欧州共通の家というビジョンからも想像できる。それが冷戦の終結した後のゴルバチョフ夫妻の夢だったのかもしれない。そこでは共産主義も資本主義も、それぞれの要素を人々の幸福度が上がる形で反映させる、搾取や戦乱のない従って酷い格差も生まない、最善に少しづづ近づく次善の理想的社会だったのではないか。これが実現していたらソ連崩壊後の民族紛争は起きなかったかもしれない。
1990年にノーベル平和賞も受賞していたミハイル・ゴルバチョフの葬儀は、9月3日に国葬ではない形でモスクワの労働組合会館で行われた。数千人の市民が参列し、彼の遺体はノボデヴッチ墓地のライサ夫人の隣に埋葬されている。世界の潮流を大きく変えた中心人物としては地味な葬儀だったかもしれないが、彼が豪華な国葬を生前に望んでいたとは到底思えない。ライサ夫人は1999年に他界しており、夫とは20年以上の時を経て、同じ土の下で隣り合い眠ることで再会できた。最愛の人ミハイル•ゴルバチョフへお帰りなさいの心境であろう。
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