1974年に正式解散したキング・クリムゾンではあったが、1981年に新作「ディシプリン」を発表し再結成されることになる。そして日本にも初めて訪れて大歓迎の来日公演を行ったことは以前のブログにも書いた。この「インディシプリン」という曲の詞はギターとリード・ヴォーカルを担当するエイドリアン・ブリューの手になるものである。彼はこの曲だけではなく、アルバム「ディシプリン」に収録された全ての歌詞を担当しているのだが、実は彼もまた音楽活動を始めた頃からキング・クリムゾンのファンであった。この為、これまで歌詞を担当してきたピート・シンフィールドとリチャード・パーマー・ジェイムスからの影響を受けているのはほぼ間違いない。つまりエイドリアン・ブリュー自身がキング・クリムゾンの音楽にとって大切な要素である詩の世界を非常に重視しているのだ。興味深いことに、キング・クリムゾンはメンバーチェンジが多いせいか、新しく参加するミュージシャンにはファンだという人がそこそこいる。「ディシプリン」発表時のメンバーではドラム担当のビル・ブラフォードもその一人である。彼は1972年発表の「太陽と戦慄」からキング・クリムゾンに加入しているが、それまで在籍していたイエスのオリジナルメンバーであるにも関わらず、キング・クリムゾンを一番好きなバンドだと公言しそのライブもよく観に行っていたらしい。
キング・クリムゾンはディシプリン・グローバル・モビールという音楽プロダクションに属しているが、ディシプリンという単語には、創始者のロバート・フリップがその企業形態の名称の一部に使用するほどの拘りが感じられる。それはビジョンに近いといっても過言ではない。ディシプリンは日本語に直訳すると規律という意味である。そして意外にも、インディシプリンはその反対語で不規律だ。アルバム「ディシプリン」に収録されている全7曲のうち5曲は歌曲なのだが、重要に思える詩はこの「インディシプリン」と「待ってください」と「セラ・ハン・ジンジ―ト」である。「セラ・ハン・ジンジ―ト」の詩はエイドリアン・ブリューの実体験をネタにしたものだが、これが真に面白い話で、都会の路地裏で拳銃を所持した殺意を感じる暴漢に襲われてしまい、すっかり怯えきって困っていたら、実はその暴漢は乱暴な対応をする警官だったという内容だ。甚だ馬鹿々々しい勘違いではあるものの、痛烈な権力批判であり、いかにもキング・クリムゾンらしい世界観ではないか。
「インディシプリン」の不規律とは不摂生な状態であり、規律正しくなく、無節操や自堕落といった人間のだらしない精神や行動について、それはわかっているんだがやめられない、やっぱり苦労せずに楽をしたい、というような心境が詩で語られている。この曲で興味深いのは詩が歌われずに、演劇の台詞のように話すパフォーマンスになっているところだ。そして言葉が話されている間に流れる音楽には不安で不気味な静けさが漂う。特にギターの響きからそれを強く感じる。その不遜な独白のような台詞が終わると、静から動へと転じキング・クリムゾンらしいダイナミックで荒々しい音が一挙に炸裂していく。この激しい演奏は詩の言葉を否定する強烈な響きに満ちている。そう感じ取れるのは、この「インディシプリン」の前の「待ってください」という曲の詩がそれを示唆しているからだ。
「待ってください」の詩には窓辺で佇み、椅子で眠る女性が登場するのだが、彼女は悲しい国アメリカで暮らしている。待ってくださいという呼びかけは、その女性に向けられたものである。では彼女は何を待っているのか。それは降り続く雨のように繰り返す痛みが止むことを空虚な気持ちで待っているのだ。そしてアメリカがなぜ悲しい国なのかもわかるような気がする。ひょっとするとこの女性は、アメリカ合衆国の世界戦略で海外へ派遣された米兵の妻なのかもしれないし、不治の病に犯された病人なのかもしれない。アルバム「ディシプリン」が発表されたのは1981年であり、アメリカ合衆国には共和党のレーガン大統領が誕生し軍拡路線が推進されていく時期にあたる。福祉予算を削減して国防費を増額させたレーガン政権は軍産複合体が活発化し、特に中南米への軍事介入にかなり積極的で世界的な非難を浴びて、映画や音楽の分野ではアメリカ合衆国政府に批判的な作品も数多く生まれている。「インディシプリン」の自暴自棄な台詞を否定する攻撃的な音は、個人の自堕落な行動よりも、どうやらアメリカ合衆国を頂点とする貪欲な現代文明の腐敗に向けられているようだ。アメリカが悲しい国なのは自由と民主主義の旗を掲げていながら、戦争産業で暴利が貪れるならば、平気で海外の独裁的な軍事政権を支援したり、内戦を焚きつけたりすることである。つまり悲しみを生む火種になってしまっている悲しみだ。待ってくださいという呼びかけは、私たちが生きている今現在が問題多き社会だからであり、私たちは詞の中の女性のように、次善や最善の社会の到来を待つ必要があるわけだ。さらに付け加えるならば、待ってくださいと呼びかける以上、そこには次善や最善の社会の到来を約束する意思表明が感じられる。もっともこの曲自体に悲観的な雰囲気はなく、むしろ甘味で穏やかなバラードに仕上がっている。この為、アルバムの中でも非常に聴きやすい曲だ。
この「待ってください」が終わった後の「インディシプリン」には一貫して不穏な空気が漂う。前述したように詩は挑発的であり、ここで語られる、わかっているんだがやめられない、苦労せずに楽したい、という台詞を重く弾劾するようなドラムとベースとギターが入り乱れる激しい演奏は、自制という貴重な鍵を捨ててしまった人類への戒めのようだ。つまりこの曲は、詩の内容を演奏で否定することで見事に完成されている。リーダーのロバート・フリップは以前、日本の音楽誌のインタビューで音楽は理想社会の表示だと答えていたことがある。この曲にも彼のそんな真面目な哲学が潜んでいるようだ。
以上のような次第で、昨年の日本縦断コンサートの全日に渡って披露された歌曲は「クリムゾンキングの宮殿」と「スターレス」とこの「インディシプリン」であるが、どの曲も今を生きる私たちにとって大変重要なメッセージ性の込められた音楽だと云えよう。と同時にライブ体験においては、音楽そのものが非常に魅力のあるものだということも述べておきたい。特に「インディシプリン」で冒頭にドラムソロが導入される形は、初来日時のライブからと同じスタイルであり、現在進行形の8人編成においては、ステージ前列3人のドラマーの打楽器による会話のような掛け合いは視覚的にも見応えのあるパフォーマンスである。それと新たな試みとして滑稽さと哀愁が同居したような独特のメロディで詩が歌われているのも魅力の一つになっている。実際にコンサートに足を運んだ観客は十二分にこの曲を堪能し楽しめたはずだ。
キング・クリムゾンはディシプリン・グローバル・モビールという音楽プロダクションに属しているが、ディシプリンという単語には、創始者のロバート・フリップがその企業形態の名称の一部に使用するほどの拘りが感じられる。それはビジョンに近いといっても過言ではない。ディシプリンは日本語に直訳すると規律という意味である。そして意外にも、インディシプリンはその反対語で不規律だ。アルバム「ディシプリン」に収録されている全7曲のうち5曲は歌曲なのだが、重要に思える詩はこの「インディシプリン」と「待ってください」と「セラ・ハン・ジンジ―ト」である。「セラ・ハン・ジンジ―ト」の詩はエイドリアン・ブリューの実体験をネタにしたものだが、これが真に面白い話で、都会の路地裏で拳銃を所持した殺意を感じる暴漢に襲われてしまい、すっかり怯えきって困っていたら、実はその暴漢は乱暴な対応をする警官だったという内容だ。甚だ馬鹿々々しい勘違いではあるものの、痛烈な権力批判であり、いかにもキング・クリムゾンらしい世界観ではないか。
「インディシプリン」の不規律とは不摂生な状態であり、規律正しくなく、無節操や自堕落といった人間のだらしない精神や行動について、それはわかっているんだがやめられない、やっぱり苦労せずに楽をしたい、というような心境が詩で語られている。この曲で興味深いのは詩が歌われずに、演劇の台詞のように話すパフォーマンスになっているところだ。そして言葉が話されている間に流れる音楽には不安で不気味な静けさが漂う。特にギターの響きからそれを強く感じる。その不遜な独白のような台詞が終わると、静から動へと転じキング・クリムゾンらしいダイナミックで荒々しい音が一挙に炸裂していく。この激しい演奏は詩の言葉を否定する強烈な響きに満ちている。そう感じ取れるのは、この「インディシプリン」の前の「待ってください」という曲の詩がそれを示唆しているからだ。
「待ってください」の詩には窓辺で佇み、椅子で眠る女性が登場するのだが、彼女は悲しい国アメリカで暮らしている。待ってくださいという呼びかけは、その女性に向けられたものである。では彼女は何を待っているのか。それは降り続く雨のように繰り返す痛みが止むことを空虚な気持ちで待っているのだ。そしてアメリカがなぜ悲しい国なのかもわかるような気がする。ひょっとするとこの女性は、アメリカ合衆国の世界戦略で海外へ派遣された米兵の妻なのかもしれないし、不治の病に犯された病人なのかもしれない。アルバム「ディシプリン」が発表されたのは1981年であり、アメリカ合衆国には共和党のレーガン大統領が誕生し軍拡路線が推進されていく時期にあたる。福祉予算を削減して国防費を増額させたレーガン政権は軍産複合体が活発化し、特に中南米への軍事介入にかなり積極的で世界的な非難を浴びて、映画や音楽の分野ではアメリカ合衆国政府に批判的な作品も数多く生まれている。「インディシプリン」の自暴自棄な台詞を否定する攻撃的な音は、個人の自堕落な行動よりも、どうやらアメリカ合衆国を頂点とする貪欲な現代文明の腐敗に向けられているようだ。アメリカが悲しい国なのは自由と民主主義の旗を掲げていながら、戦争産業で暴利が貪れるならば、平気で海外の独裁的な軍事政権を支援したり、内戦を焚きつけたりすることである。つまり悲しみを生む火種になってしまっている悲しみだ。待ってくださいという呼びかけは、私たちが生きている今現在が問題多き社会だからであり、私たちは詞の中の女性のように、次善や最善の社会の到来を待つ必要があるわけだ。さらに付け加えるならば、待ってくださいと呼びかける以上、そこには次善や最善の社会の到来を約束する意思表明が感じられる。もっともこの曲自体に悲観的な雰囲気はなく、むしろ甘味で穏やかなバラードに仕上がっている。この為、アルバムの中でも非常に聴きやすい曲だ。
この「待ってください」が終わった後の「インディシプリン」には一貫して不穏な空気が漂う。前述したように詩は挑発的であり、ここで語られる、わかっているんだがやめられない、苦労せずに楽したい、という台詞を重く弾劾するようなドラムとベースとギターが入り乱れる激しい演奏は、自制という貴重な鍵を捨ててしまった人類への戒めのようだ。つまりこの曲は、詩の内容を演奏で否定することで見事に完成されている。リーダーのロバート・フリップは以前、日本の音楽誌のインタビューで音楽は理想社会の表示だと答えていたことがある。この曲にも彼のそんな真面目な哲学が潜んでいるようだ。
以上のような次第で、昨年の日本縦断コンサートの全日に渡って披露された歌曲は「クリムゾンキングの宮殿」と「スターレス」とこの「インディシプリン」であるが、どの曲も今を生きる私たちにとって大変重要なメッセージ性の込められた音楽だと云えよう。と同時にライブ体験においては、音楽そのものが非常に魅力のあるものだということも述べておきたい。特に「インディシプリン」で冒頭にドラムソロが導入される形は、初来日時のライブからと同じスタイルであり、現在進行形の8人編成においては、ステージ前列3人のドラマーの打楽器による会話のような掛け合いは視覚的にも見応えのあるパフォーマンスである。それと新たな試みとして滑稽さと哀愁が同居したような独特のメロディで詩が歌われているのも魅力の一つになっている。実際にコンサートに足を運んだ観客は十二分にこの曲を堪能し楽しめたはずだ。
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