「スターレス」はキング・クリムゾンの数多くの優れた楽曲群においても、非常に人気の高い曲だ。キング・クリムゾンが正式にアップしているユーチューブの動画視聴回数も最大で、2015年の日本公演の映像は既に600万回を超えている。この曲の凄いところは、それまでのキング・クリムゾンの壮大な名曲「21世紀の精神異常者」、「エピタフ」、「クリムゾンキングの宮殿」の魅力を1曲に凝縮させたような迫力に満ちているところだろう。歌のメロディーの切なく悲しい雰囲気や、グレッグ・レイクに匹敵するジョン・ウェットンの重厚な歌唱力。そして破壊力全開の凄まじい演奏。更に演奏における静と動や、強弱、そして絶妙な速度変化。正直、十代後半の頃に初めてこの曲を聴いた時の衝撃は個人的な音楽史の中でも忘れ難いものであった。この「スターレス」を収録したアルバム「レッド」を発表した1974年にキング・クリムゾンは正式に解散してしまうのだが、「スターレス」のメロトロンとベースが残響する最終の音は全ての終末を暗示させる。この終焉部における悲壮感は荘厳なことこの上なく、人類史で不条理な死を遂げた無尽蔵の生命全てを鎮魂しているような趣がある。キング・クリムゾンの曲で、最も音楽的完成度が高いのはこの「スターレス」かもしれない。特に2017年に他界したジョン・ウェットンのヴォーカルとベースプレイはこれが彼のベストワークだろう。
暗黒という意味の「スターレス」の歌詞はリチャード・パーマー・ジェイムスという正式メンバーではない詩人が書いたものだが、ピート・シンフィールドからの影響が顕著に感じられる。実は彼は全米のヒットチャートの頂点を制したこともあるスーパー・トランプの初期在籍メンバーのギタリストだ。しかしこのスーパー・トランプも活動初期にはポップソングを連発する大衆向けの音楽を制作していたわけではない。むしろその音楽性は幻想的で演奏はジャズに接近したようなスタイルであった。要はキング・クリムゾンに近いものがあったわけである。彼の詩を採用した理由は、当時のヴォーカルとベースを担当していたジョン・ウェットンの旧友という縁もあろうが、詩人としての優れた才能が大きな決め手だろう。アルバム「太陽と戦慄」、「暗黒の世界」、「レッド」という後世においても大変評価の高い3作品の詩は全て、このリチャード・パーマー・ジェイムスの手になるもので、興味深いのはピート・シンフィールドよりも時代の世相が幾分か詩に反映されているところだ。キング・クリムゾンは1968年に結成し音楽活動を開始したわけだが、ピート・シンフィールドが脱退した1972年以降、ベトナム戦争はようやく終結の兆しが見えてきていた。米軍は徐々に撤退を開始し、翌1973年にはパリ協定で停戦が約されている。但しそれが世界平和と理想社会の到来を意味したわけではない。なぜなら北ベトナムは停戦の約束を反故にして南ベトナムを攻撃して祖国統一を果たすし、同じ東南アジアのカンボジアの内戦はその後20年以上も続くからである。またそれ以外の地域、アフリカ、中央アジア、中東、中南米においてもベトナム戦争ほどの大規模な泥沼状態ではなくとも、米国とソ連の軍事介入は続いていく。ピート・シンフィールドの詩が現代のみならず未来や過去の時代を描くことで普遍的なメッセージを送っていたのとは対照的に、リチャード・パーマー・ジェイムスの詩はその殆どに現代社会の日常性が息づいている。そしてそれはこれ迄の問題意識が変容したというよりは、詩人が代わることで新しい要素が加味されたといってよい。きっとこれは正しい在り方なのだ。なぜなら当時、欧米の先進諸国においては拝金主義が蔓延り、文明社会の大量生産と大量消費というサイクルに影響力を及ぼす巨大企業は社会貢献よりも効率性や利益を重視し、それは音楽産業にさえ反映されていたことであった。また同時に多くの若者には反戦運動への厭世観も生じはじめていた。結局、膨大な屍を礎にした戦争の勝利者による力で成し遂げられる平和に対する懸念や危惧である。しかも政治家の多くは選挙に勝って利権を掌中に収めることが目的であり、世の為人の為に粉骨砕身する偉人はどこにも存在しない。謂わば時代の閉塞感のようなものが欧米や日本をも含めた先進諸国に漂っていたのが「スターレス」の生まれた土壌であったと云える。
「スターレス」の詩における嘆きや絶望は、一見すると投げやりで空虚な脱力感を伴う独白のようだ。例えば「エピタフ」の詩における嘆きや絶望は悲痛なことこの上なく、詩人の想像力は預言者のようではあっても戦禍の犠牲者に寄り添う極点にまで到達していた。しかし「スターレス」は違う。ここで詩を語る者は、戦禍や貧困から遠く離れた自分の足元を冷静に見つめているように思える。安全地帯で美しい黄昏と対峙しても、心の奥には無限の暗黒が広がっているのだ。それは良心の呵責からくるものであり、先進諸国の小市民ではあっても、清潔で安定した衣食住の確保された幸福が、実は膨大な不幸を礎にしているのではないかという不安や危惧である。そして哀愁のメロディーを背景にしたジョン・ウェットンの情感が込められた歌が終わると、詩で語られている不安感を象徴する弱い焔のような揺らぎがギターとベースとドラムの冷たい演奏で表現されてゆく。これはスローテンポなリズムの繰り返しではあるものの、徐々に音は大きく鋭く変化してゆき、あの「21世紀の精神異常者」の間奏を彷彿とさせる怒気を孕んだ破壊的な恐慌状態に陥っていく。まさに全世界の暴力支配を激烈な音で徹底的に粉砕していくかのように。この雷鳴や激流のような轟音の集積こそがキング・クリムゾンの真骨頂であろう。そして詩人の心境が綴られた言葉は、創造される音楽に全てを託していたことがわかるのだ。特に詩の終わり辺りに語られる灰色の希望という言葉がそれを暗示している。灰色とは私たちが生きる現実世界そのものを表しているような言葉である。理想とはほど遠い現実を。明るい薔薇色ではなく現実社会は色褪せた鈍い灰色だということを。そのような地に根差した現状認識を踏まえた上で私たちは希望を持つことが大切なのだ。戦乱と搾取が跋扈する忌まわしい惨禍から目を背けることはできない。ゆえにリチャード・パーマー・ジェイムスの詩もピート・シンフィールドと同様に20世紀に書かれたものであっても、21世紀の現代に強く訴えかけるメッセージ性が感じられる。今や13時間に1人が殺されるほど治安の悪化した国が存在し、恐ろしい暴政から逃れるべく大量の移民が発生する時代になってしまった。それでもなお其処にとどまり、医療や教育に従事する健気な人々もいる。彼らこそまさに灰色の希望そのものだ。戦乱と搾取は明らかに私たちの生きているこの世界を不幸にしている。戦乱と搾取が絶対的に強固な形だとするならば、キング・クリムゾンの音楽はその形を壊す為に在る。どれほど攻撃的で暴虐性を感じる音も一切合切が暴力批判である。なぜならこの音楽の創造者たちが手にしているのは武器ではなく楽器なのだから。それゆえ私たちは彼らの音楽に感動するのだ。間奏のドラムとベースとサックスとギターが激しい即興演奏を絡ませながら波打ち、いよいよ終盤に入ると冒頭の哀愁を帯びたメロディーが、大音響の荘厳で悲壮感に満ちた表現で蘇り締めくくられる。ここで感じられる終末観はどこまでも深く潔く、それは決然と打ち鳴らされる警鐘のようである。
この「スターレス」を聴き終わった後に感じる余韻は、それ迄のキング・クリムゾンの歴史であり、ピート・シンフィールドの詩が語っていた普遍的なメッセージと矛盾しない世界だ。そして興味深いことに「レッド」というアルバム裏面のジャケットデザインは、メーターの針が赤い危険数値を指した写真である。この写真で真っ先に思い起こすのは核戦争や環境破壊を含めた人類の滅亡を警告する「世界終末時計」の存在だ。この「世界終末時計」は定期的に時刻が修正されているのだが、時計の針が午前零時を指すと世界は完全に終わってしまうことになる。「レッド」が発表された1974年は米ソの軍縮交渉が難航したことと、インドが初めて核実験を行ったことで、残念ながら時計の針が午前零時への9分前に進んでしまった年であった。しかしもっと深刻なのは、昨年1月の「世界終末時計」が午前零時へ切迫した2分前を指していることだ。「世界終末時計」は米国の「原子力科学者会報」の委員会により1947年に設置されているのだが、人類の英知を問う重大な意義がある。
考えてみれば、キング・クリムゾンのバンド名も実に奥が深い。デビューアルバムのタイトル「クリムゾンキングの宮殿」のクリムゾンキングとは鮮血のような深紅の王を意味し、吸血鬼のように冷酷な権力を体現する王を象徴しているネーミングだが、キング・クリムゾンはその意味が真逆になっている。それは王の鮮血のような深紅の色であり、謂わば王の破滅、つまり権力の崩壊を意味してはいまいか。そしてこのネーミングは音楽を含めた芸術の純粋性を尊重しているように思えてならない。たとえば権力に利用された芸術作品の典型的な例として、ナポレオンを礼賛する画家ダヴィッドの描いた絵画「アルプスを越えるナポレオン」は大変有名だが、あのような作品とは全く次元のかけ離れた世界なのだ。「スターレス」を一聴すればそれはすぐわかる。スタジオ録音されたアルバムの「レッド」に収録されたものも、世界各国でのライブが収録されたバージョンもそのどれもが素晴らしい。今の私にとって最高の「スターレス」は昨年12月の来日公演の生々しい記憶だが、一番聴いた回数が多いのは1974年の米国公演を収録した「USA」というライブアルバムのものかもしれない。この時に演奏したメンバーはロバート・フリップとジョン・ウェットンとビル・ブラフォードとデヴィッド・クロスの4人である。
暗黒という意味の「スターレス」の歌詞はリチャード・パーマー・ジェイムスという正式メンバーではない詩人が書いたものだが、ピート・シンフィールドからの影響が顕著に感じられる。実は彼は全米のヒットチャートの頂点を制したこともあるスーパー・トランプの初期在籍メンバーのギタリストだ。しかしこのスーパー・トランプも活動初期にはポップソングを連発する大衆向けの音楽を制作していたわけではない。むしろその音楽性は幻想的で演奏はジャズに接近したようなスタイルであった。要はキング・クリムゾンに近いものがあったわけである。彼の詩を採用した理由は、当時のヴォーカルとベースを担当していたジョン・ウェットンの旧友という縁もあろうが、詩人としての優れた才能が大きな決め手だろう。アルバム「太陽と戦慄」、「暗黒の世界」、「レッド」という後世においても大変評価の高い3作品の詩は全て、このリチャード・パーマー・ジェイムスの手になるもので、興味深いのはピート・シンフィールドよりも時代の世相が幾分か詩に反映されているところだ。キング・クリムゾンは1968年に結成し音楽活動を開始したわけだが、ピート・シンフィールドが脱退した1972年以降、ベトナム戦争はようやく終結の兆しが見えてきていた。米軍は徐々に撤退を開始し、翌1973年にはパリ協定で停戦が約されている。但しそれが世界平和と理想社会の到来を意味したわけではない。なぜなら北ベトナムは停戦の約束を反故にして南ベトナムを攻撃して祖国統一を果たすし、同じ東南アジアのカンボジアの内戦はその後20年以上も続くからである。またそれ以外の地域、アフリカ、中央アジア、中東、中南米においてもベトナム戦争ほどの大規模な泥沼状態ではなくとも、米国とソ連の軍事介入は続いていく。ピート・シンフィールドの詩が現代のみならず未来や過去の時代を描くことで普遍的なメッセージを送っていたのとは対照的に、リチャード・パーマー・ジェイムスの詩はその殆どに現代社会の日常性が息づいている。そしてそれはこれ迄の問題意識が変容したというよりは、詩人が代わることで新しい要素が加味されたといってよい。きっとこれは正しい在り方なのだ。なぜなら当時、欧米の先進諸国においては拝金主義が蔓延り、文明社会の大量生産と大量消費というサイクルに影響力を及ぼす巨大企業は社会貢献よりも効率性や利益を重視し、それは音楽産業にさえ反映されていたことであった。また同時に多くの若者には反戦運動への厭世観も生じはじめていた。結局、膨大な屍を礎にした戦争の勝利者による力で成し遂げられる平和に対する懸念や危惧である。しかも政治家の多くは選挙に勝って利権を掌中に収めることが目的であり、世の為人の為に粉骨砕身する偉人はどこにも存在しない。謂わば時代の閉塞感のようなものが欧米や日本をも含めた先進諸国に漂っていたのが「スターレス」の生まれた土壌であったと云える。
「スターレス」の詩における嘆きや絶望は、一見すると投げやりで空虚な脱力感を伴う独白のようだ。例えば「エピタフ」の詩における嘆きや絶望は悲痛なことこの上なく、詩人の想像力は預言者のようではあっても戦禍の犠牲者に寄り添う極点にまで到達していた。しかし「スターレス」は違う。ここで詩を語る者は、戦禍や貧困から遠く離れた自分の足元を冷静に見つめているように思える。安全地帯で美しい黄昏と対峙しても、心の奥には無限の暗黒が広がっているのだ。それは良心の呵責からくるものであり、先進諸国の小市民ではあっても、清潔で安定した衣食住の確保された幸福が、実は膨大な不幸を礎にしているのではないかという不安や危惧である。そして哀愁のメロディーを背景にしたジョン・ウェットンの情感が込められた歌が終わると、詩で語られている不安感を象徴する弱い焔のような揺らぎがギターとベースとドラムの冷たい演奏で表現されてゆく。これはスローテンポなリズムの繰り返しではあるものの、徐々に音は大きく鋭く変化してゆき、あの「21世紀の精神異常者」の間奏を彷彿とさせる怒気を孕んだ破壊的な恐慌状態に陥っていく。まさに全世界の暴力支配を激烈な音で徹底的に粉砕していくかのように。この雷鳴や激流のような轟音の集積こそがキング・クリムゾンの真骨頂であろう。そして詩人の心境が綴られた言葉は、創造される音楽に全てを託していたことがわかるのだ。特に詩の終わり辺りに語られる灰色の希望という言葉がそれを暗示している。灰色とは私たちが生きる現実世界そのものを表しているような言葉である。理想とはほど遠い現実を。明るい薔薇色ではなく現実社会は色褪せた鈍い灰色だということを。そのような地に根差した現状認識を踏まえた上で私たちは希望を持つことが大切なのだ。戦乱と搾取が跋扈する忌まわしい惨禍から目を背けることはできない。ゆえにリチャード・パーマー・ジェイムスの詩もピート・シンフィールドと同様に20世紀に書かれたものであっても、21世紀の現代に強く訴えかけるメッセージ性が感じられる。今や13時間に1人が殺されるほど治安の悪化した国が存在し、恐ろしい暴政から逃れるべく大量の移民が発生する時代になってしまった。それでもなお其処にとどまり、医療や教育に従事する健気な人々もいる。彼らこそまさに灰色の希望そのものだ。戦乱と搾取は明らかに私たちの生きているこの世界を不幸にしている。戦乱と搾取が絶対的に強固な形だとするならば、キング・クリムゾンの音楽はその形を壊す為に在る。どれほど攻撃的で暴虐性を感じる音も一切合切が暴力批判である。なぜならこの音楽の創造者たちが手にしているのは武器ではなく楽器なのだから。それゆえ私たちは彼らの音楽に感動するのだ。間奏のドラムとベースとサックスとギターが激しい即興演奏を絡ませながら波打ち、いよいよ終盤に入ると冒頭の哀愁を帯びたメロディーが、大音響の荘厳で悲壮感に満ちた表現で蘇り締めくくられる。ここで感じられる終末観はどこまでも深く潔く、それは決然と打ち鳴らされる警鐘のようである。
この「スターレス」を聴き終わった後に感じる余韻は、それ迄のキング・クリムゾンの歴史であり、ピート・シンフィールドの詩が語っていた普遍的なメッセージと矛盾しない世界だ。そして興味深いことに「レッド」というアルバム裏面のジャケットデザインは、メーターの針が赤い危険数値を指した写真である。この写真で真っ先に思い起こすのは核戦争や環境破壊を含めた人類の滅亡を警告する「世界終末時計」の存在だ。この「世界終末時計」は定期的に時刻が修正されているのだが、時計の針が午前零時を指すと世界は完全に終わってしまうことになる。「レッド」が発表された1974年は米ソの軍縮交渉が難航したことと、インドが初めて核実験を行ったことで、残念ながら時計の針が午前零時への9分前に進んでしまった年であった。しかしもっと深刻なのは、昨年1月の「世界終末時計」が午前零時へ切迫した2分前を指していることだ。「世界終末時計」は米国の「原子力科学者会報」の委員会により1947年に設置されているのだが、人類の英知を問う重大な意義がある。
考えてみれば、キング・クリムゾンのバンド名も実に奥が深い。デビューアルバムのタイトル「クリムゾンキングの宮殿」のクリムゾンキングとは鮮血のような深紅の王を意味し、吸血鬼のように冷酷な権力を体現する王を象徴しているネーミングだが、キング・クリムゾンはその意味が真逆になっている。それは王の鮮血のような深紅の色であり、謂わば王の破滅、つまり権力の崩壊を意味してはいまいか。そしてこのネーミングは音楽を含めた芸術の純粋性を尊重しているように思えてならない。たとえば権力に利用された芸術作品の典型的な例として、ナポレオンを礼賛する画家ダヴィッドの描いた絵画「アルプスを越えるナポレオン」は大変有名だが、あのような作品とは全く次元のかけ離れた世界なのだ。「スターレス」を一聴すればそれはすぐわかる。スタジオ録音されたアルバムの「レッド」に収録されたものも、世界各国でのライブが収録されたバージョンもそのどれもが素晴らしい。今の私にとって最高の「スターレス」は昨年12月の来日公演の生々しい記憶だが、一番聴いた回数が多いのは1974年の米国公演を収録した「USA」というライブアルバムのものかもしれない。この時に演奏したメンバーはロバート・フリップとジョン・ウェットンとビル・ブラフォードとデヴィッド・クロスの4人である。
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