帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔百七〕関は

2011-07-03 01:25:50 | 古典

          

 

                         帯とけの枕草子〔百七〕関は



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 

清少納言 枕草子〔百七〕関は

 

関は、相坂。須磨の関。すゞかのせき。くきたのせき。白河の関。衣のせき。たゞごえの関は、はばかりの関に、たとへしなくこそおぼゆれ。よこはしりの関。きよみが関。見るめのせき。

よしよしの関こそ、いかに思ひかへしたるならんと、いと知らまほしけれ。それをなこその関といふにやあらん。相坂などを、さて思ひかへしたらんは、わびしかりなんかし。

 

清げな姿

関は、逢坂。須磨の関、鈴鹿の関、岫田の関、白河の関、衣の関。ただ越えの関は憚りの関に比べようもないと思える。横走の関。清見が関。見るめの関。

よしよしの関こそ、どのように思い返したのだろうかと、とっても知りたいことよ。それを、勿来の関というのでしょうか、逢坂などを、そうして思い返したのなら、わびしいでしょうよ

 

心におかしきところ

 関門は、合う坂。す間の門。すす彼の門。峰多の門。白川の門。衣の関門。ただ越えの門は憚りの関門に比べようもないと思える。横しまに先走る門。清いまぐあいの門。みる女の門。

よしよしの門は、どのように思い返したのか、とっても知りたいことよ。それ、を、来る勿れの関門というのでしょうか、合うべき山坂などを、そうして、合わなくても・もういいわと思い返したのならば、女は・もの足りずさびしいでしょうよ

 

 言の戯れを知り、紀貫之のいう言の心を心得ましょう

「関…関所…関門…門…身の門…女」「す…洲…女」「ま…間…女」「すか…すが…清が…すがすがしい…空か…隙間がある」「くきた…岫田…峰多」「岫…峰…山ばの頂上」「田…女…多」「河…川…女」「衣…衣の色…身分の違い…心身」「はばかり…憚り…差し障り」「見るめ…海藻…見る女」「見…覯…媾」「よしよし…ええままよ…どうなろうともういいわ」。


 

 「白河の関にて」詠んだという平兼盛の歌を聞きましょう。藤原公任撰「和漢朗詠集」行旅にある。

 たよりあらばみやこへいかでつげやらむ けふしらかはのせきはこえぬと

 (便り有れば、都へどのように告げようかな、今日、白河の関所は越えたと……頼りあれば・わが消息、宮この女に、どのように告げようかな、山ばの京を、白きひとの門は、越え終えたね・共にと)。

 

 「みやこ…都…宮こ…ものの極み」「けふ…今日…京…山ばの頂上…絶頂…感の極み」「白…男の色…果ての色」「河…川…女」「関…関所…関門…門…身の門…女」「ぬ…完了した意を表わす」。


 

「関…門…女」などという言の戯れは、理屈ではないので説明不能。紀貫之は仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得る人は、古今集の歌が恋しくなるであろう」と言ったのは、言の心は、ただ心得るしかないためである。誰もが、そう心得ていれば、その文脈では、その意味で通用する。

 

 

 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず   (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新日本古典文学大系 岩波書店」による