帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 雑(七十三) 藤原輔照

2013-01-07 00:33:48 | 古典

    



             帯とけの金玉集



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。

公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。



 金玉集 雑(七十三)藤原輔照

  なとらがなすべき事ありて、東より京にもうできて侍りけるに、にはかに公事にかかりて、異方のしおきにつかはしけるに、あれにかはりて、

  (或る男が為すべき事があって、東国より京に参ったときに、急に公の事に関して別の方へ取り締まりのために派遣されたので、彼に代わって)、

 まだしらぬふるさと人は今日までや 来むと頼めし暮れをまつらむ

 (未だ知らぬ故郷の人々は、今日までだなあ、帰って来るとあてにして、日の暮れを待っているだろうなあ……過ぎて逝ったと、まだ知らない古妻は、京まではと、山ば来るでしょうと、頼りにして、果てを待っているだろうなあ)。


 言の戯れと言の心

 「ふるさと人…故郷の人々…古里人…古妻…慣れ親しんだ女」「さと…里…女…さ門」「けふまでや…今日までには…京までよねえ」「や…疑問を表す…詠嘆の意を表す」「来む…(帰って)来るだろう…(京が)来るだろう…(感の極みが)来るだろう」「頼めし…信頼している…頼りにしている」「暮れ…日暮れ…夕暮れ…男の訪れるころ…果て」「らむ…(今ごろ彼の古妻は待っている)だろう…現在のことについて推量する意を表す」。


 歌の清げな姿は、東国の人が君の帰りを待ち焦がれているのにとの同情。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、人の妻に対するいらぬ同情。

 

 「なとら」は他本に「ちはる」とあり、作者の藤原輔照も菅原輔昭とあるなど、歌の出どころ詳らかにならない。

 

 
 ついでながら、拾遺和歌集恋一にある菅原輔昭(道真の曾孫)の歌を聞きましょう。

  契りけることありける女につかはしける

 つゆばかり頼めしほどの過ぎゆけば 消えぬばかりの心地こそすれ

 (ほんの露ほど頼りにさせた時が過ぎゆけば、契ったことが、消えてしまいそうな心地がする……白つゆほど少し頼りにさせた時が過ぎ逝けば、我がものが、消えてしまいそうな心地がするよ)。


 「つゆ…露…ほんの少し…白つゆ…おとこ白つゆ」「ゆけば…行けば…逝けば」。

 


 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。