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帯とけの金玉集
紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。
公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。
金玉集 雑(七十五)よみ人しらず
風吹けばおきつ白浪たつた山 夜半にや君がひとり行くらむ
(風吹けば難波津の沖の白浪が立つ滝田山、夜半なのによ、君が独り越えて行くのでしょう・どうして……心に風吹けば奥の白々しい波がたつ、断つた山ば、夜の半ばでか、どうして君が一人越えて逝くのでしょう・わたしを置き去りにして)。
言の戯れと言の心
「風…心に吹く風…飽き風…春風などさまざま」「おき…沖…奥…置き」「つ…津…の(所属の意を表す)…た(完了を表す)」「たつた山…大和国と河内国の間にある山の名…名は戯れる、立つ多山ば、絶つ多山ば、断つた山ば」「夜半にや…夜中にか…夜も明けないのに」「や…疑問…詠嘆」「ひとり…(女の許へ)独り…(わたしを連れないで)一人」「ゆく…行く…逝く」「らむ…今ごろ何々だろう…推量の意を表す…どうして何々だろう…原因理由を推量する意をあらわす」。
伊勢物語(第二十三)にある歌。第五句「ひとりこゆらむ」。かいつまんで作歌事情を紹介しましょう。
昔、幼馴染の男女が大人になって相思相愛で結ばれた。数年経つ間に、倦怠期をむかえたらしい、諸共に「たよりなくなる(頼りなくなる)」とか「いふかいなくてあらんや(言うかいもないなあ)」とか思うようになって、男は河内国の高安の郡に行き通う女が出来た。妻は「悪し」と思う様子もなく送り出すので、男は「別に思いがあって、こうなのだろう」と疑って、前栽の中に隠れて河内へ行ったように装って妻を見ていると、「いとようけさうして(とっても良く化粧して…とっても好く懸想して…とっても妖、怪相して)、うちながめて(ふと遠くを眺めて…ふともの思いに耽って)」この歌を詠んだ。男は「かぎりなくかなし(限りなく愛しい…限りなく悲しい)」と思って、河内へは行かなくなった。
歌の姿は夫の身を心配してのことで清げである。
「心にをかしきところ」は、ひとりゆくはかないおとこのさがの原因理由を思い、妻が怪相してうちながめるところ。
歌には、女の深い心が感じられ、公任の言う優れた歌の条件を満たしている。
古今和歌集 雑歌下、題しらず、よみ人しらず。作歌事情は長い左注に記してある。
藤原公任は歌論『新撰髄脳』に、この歌を「是は貫之が歌の本とすべしといひける也」と紹介している。紀貫之がこれは歌の手本とすべきであると言ったというのである。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。