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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せて、解釈者(国文学者)の憶測した意見が加えられるが、和歌の真髄に達することは出来ない。
和歌は、今の人々の知るのとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。
「古今和歌集」 巻第二 春歌下(117)
山寺に詣でたりけるによめる (貫之)
宿りして春の山辺にねたる夜は 夢の内にも花ぞちりける
(山寺に参詣していた時に詠んだと思われる……山てらに花を見に参上していた時に詠んだらしい)・歌 (貫之)
(山寺に詣でて・宿に泊って、春の山辺に寝た夜は、夢の中でも木の花が、散っていたことよ……花見にお訪ねして・宿に泊って、春情の山ば辺り妄想し眠った夜は、夢の中でも、おとこ花ぞ、散ったことがあったなあ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「やまてら…山寺…山照ら…山ばの照り…山ばでのおとこ照り」「まうでたりける…詣でていた…参詣していた…お訪ねしていた…参上していた」。
「春…季節の春…情の春…春情」「山…山ば…感情の山ば」「ねたる…寝た…眠った」「花…木の花…桜花…言の心は男…おとこ花」「ぞ…強調する意を表す」「ける…けり…過去・回想、気付き・詠嘆」。
山寺に詣でて、春の山辺の宿で寝た夜は、夢の中でも桜花が、散っていたことよ。――歌の清げな姿。
山てらに花を見に参上して泊っていて、春情の山ば辺りを妄想して眠った夜は、夢の中にも、おとこ花ぞ、散ったことよ。――心におかしきところ。
国文学的解釈は、おとこ花の散るさまであるなどとは、夢にも思わないだろうが、「歌の様を知り言の心を心得る人」であれば、否応なく男の性(さが)を詠んだ歌とわかる。これが、歌の「心深き」ところだろう。
夢の中でも、梓弓張りとなって、射る男の性(煩悩)を、修行中の僧は如何なさるのかお尋ねしたところ、降る雨は天に任せ、散るお花は風任せということであったそうである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)