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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。
「古今和歌集」 巻第二 春歌下(126)
春の歌とてよめる 素性
おもふどち春の山辺に打ちむれて そこともいはぬたびねしてしか
春の季節の歌ということで詠んだと思われる・歌……春の情の歌ということで詠んだらしい・歌、 そせい(法師としてではなく、男の心に思うことを詠んだ歌と聞く)
(思いの同じ仲間、春の山辺にうち群がって、どこ其処でとは言ず、旅寝したいことよ……恋しあう二人、春情の山ば辺りで、内蒸れて、底とは言わず、度々共寝したいものだなあ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「おもふどち…思いの同じ仲間…相思相愛の二人」「春…季節の春…情の春…春情」「山…山ば…感情などの頂点」「打むれて…うち群れて…内蒸れて」「うち…打ち…接頭語…内」「そこ…其処…底…最も下…限界」「たびね…旅寝…旅の宿でごろ寝…春の野で野宿…度び寝…度々の共寝」「しか…願望を表す、実現不可能な願望であることが多い」。
春の季節と青春を謳歌したい若者たちの心。――歌の清げな姿。
愛し合う二人、絶頂辺りで内蒸れて、あゝ逝けの底かと言わない、度々の共寝がしたいよ。――心におかしきところ。
言葉の戯れに顕れた趣旨は、人の果てしない欲望、果てしない業(善悪いずれかの報いを引き起こす行為)だろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)