帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(131) 声たえず鳴けや鶯ひととせに

2017-01-23 19:01:32 | 古典

             

 

                         帯とけの古今和歌集

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下131

 

寛平御時后宮歌合の歌            興風

声たえず鳴けや鶯ひととせに ふたたびとだに来べき春かは

(寛平御時后宮歌合の歌)             おきかぜ(藤原興風)

(声絶えずに鳴けや、鶯、一年に再びだよ、来る春の季節か、来はしない……小枝絶えないように泣けや、浮く泌す女、ひとと背の君に、再びだよ来るべき張るかは・一過性よ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「こゑ…声…小枝…おとこ…木の言の心は男…身の枝はおとこ」「なけや…鳴けよ…泣けよ」「鶯…鳥…鳥の言の心は女…春の鳥の名…名は戯れる…浮く泌す…憂く干す…うく秘す」「くべき…来て当然の…繰べき…繰り返すことのできる」「春…季節の春…春情…張る」「かは…反語の意を表す…疑問を表す」。

 

声絶えず、ゆく春惜みて・鳴けよ、鶯、一年に二度と来るべき春の季節か、ではないのだから。――歌の清げな姿。

小枝絶えず、泣きつづけよ、浮く泌す女、ひとと背の君に、二度と繰るべき、張るものかは。、――心におかしきところ。

 

晩春に聞こえる鶯の老い声につけて、男の身の小枝のはかない一過性の張るを思う心を言い出した歌。

 

春歌上下巻の歌の、春の風物、風情及びその自然に対する人の思いは、歌の「清げな姿」である。言の心と歌言葉の戯れに顕れるエロス(生の本能・性愛)こそ、「心におかしきところ」である。


 このような歌が歌合で、三度ゆっくりと長く延ばして感情込めずに、読み上げられるところを想像すると、並み居る大人の女性たちの心をくすぐり、それぞれに「あはれ」とか「をかし」と思うだろう。歌合の楽しさは、艶歌の競演を聴くのに似ている。判者によって批評が加えられ、左右の歌の勝劣を判定するようになると、さらに楽しさが増すことだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)