帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(129)花ちれる水のまにまにとめくれば

2017-01-20 20:23:46 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下129

 

弥生のつごもりがたに山を越えけるに、山河より

花の流れけるをよめる         深養父

花ちれる水のまにまにとめくれば 山には春もなくなりにけり

春三月の晦日ごろに、山を越えたので、山川より花びらが流れていたのを、詠んだと思われる・歌……や好いの果て方に山ばを越えたので、山ばのをみなよりおとこ花が流れたのを、詠んだらしい・歌。 深養父

花の散った川の流れのままに、咲く花を・もとめて来れば、山には春も無くなっていたことよ……おとこ花果てた、をみなのいうままに求め、繰り返し・来れば、山ばには、春の情も・張るものも、なくなったなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「やよひ…弥生…三月…月の名称…名は戯れる…や好い…八好い…多くの快楽」「河…水…言の心は女…川…おんな」。

「花…木の花…おとこ花」「水…川…言の心は女」「まにまに…なりゆき任せに…言うままに…間に間に…連続ではなく間をあけて」「とめ…尋ね…訪ね…求め」「くれば…来れば…繰れば…繰り返せば」「山…山ば」「春…季節の春…情の春…ものの張る」「けり…気付き・詠嘆」。

 

流れ来る花びらのままに、咲く花を求めて山まで来てみれば、山はすっかり春では無くなっていたことよ。――歌の清げな姿。

おとこ花は散り果てた、をみなの求めるままに繰り返し来れば、山ばに張るものもなくなっていたことよ。――心におかしきところ。

 

男が性愛において心に思うことを、清げな姿に付けて表出した歌。

 

清原深養父は、清少納言の祖父か曽祖父という。


 清少納言は、このような歌と全く同じ文脈に在って枕草子を書いた。三月・弥生、花・木の花、川・水、春などは、彼女の用いるときにも、それぞれの多様な意味はそのまま孕んでいた。枕草子に、男の言葉
(例えば白楽天の詩など)も、女の言葉(主に和歌の言葉)も、われわれの言葉は「聞き耳異なるもの」とある。これは、言葉の意味は受け手によって意味の異なるものであるという言語観である。それでも、この厄介な言葉を利して(逆手に取って)、「をかし」を他人に伝達できる表現様式を和歌に学んで、彼女は知っていたのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)