■■■■■
帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。
「古今和歌集」 巻第二 春歌下(127)
春のとく過ぐをよめる 躬恒
梓弓春たちしより年月の 射るがごとくも思ほゆるかな
季節の春の早く過ぎるを詠んだと思われる・歌……春情が早く過ぎ去るのを詠んだらしい・歌。 みつね
(梓弓、春立ちし日より、年月が射るが如くにも、過ぎ去ると・思えることよ……あずさ弓、春情の・張るの、立ちしより、疾し尽きの・早過ぎる尽きの、射るが後疾くも思えるなあ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「春…季節の春…春情…張る」「とく…疾く…早過ぎ」。
「梓弓…枕詞…引く・張る・射る・春などにかかる」「春…季節の春…春情…張る」「立ち…始まり…起立…そそり立ち…断ち…絶ち」「ごとく…如く…後疾く…後の(堕ち込みの)早過ぎ」「も…強調…付け加える意を表す」「かな…感嘆・詠嘆の意を表す」。
立春より春の日々の経つのは早くて、梓弓射る矢の如く思えるなあ。――歌の清げな姿。
はる物の立ちしより、疾し尽きが、射る後も、疾く過ぎ去ると思えるなあ。――心におかしきところ。
男の性愛におけるありさま、山ばの後、逝けに堕ちる、その早過ぎる空虚な思いをも、清げな姿に付けて表出した歌。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)