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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。
「古今和歌集」 巻第二 春歌下(122)
題しらず) (よみ人しらず)
春雨ににほへる色もあかなくに 香さへなつかし山ぶきのはな
題知らず 詠み人知らず(女の詠んだ歌として聞く)
(春雨に鮮やかになった色彩も飽きないのに、香りさえ好ましい、山吹の花よ……春情のおとこ雨に、艶めかしい色情も飽きないのに、香りさえ親愛なる、山ばに咲くおとこ花よ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「春雨…春の季節に降る雨…春情のおとこ雨」「にほえる色…鮮やかな色…艶のある色彩…好い香りがするような色」「色…色彩…かたちあるもの…色香…色情」「か…香…香り…彼…あれ」「なつかし…親愛なる…好ましい…なれ親しい」「山吹の花…低木ながら木の花、言の心は男…おとこ花」「山…山ば」「ふき…吹き…吹上…放出」「はな…花…先端…身の端…体言止めは余情がある」。
春雨に鮮やかな色彩、見ていても飽きないのに、香りさえ好ましい山吹の花よ。――歌の清げな姿。
春のおとこ雨に、艶っぽくなった色情もかたちも飽きないのに、香りさえ好ましいわ、山ばのおとこ花。――心におかしきところ。
女性には山ばのおとこ花を手放しで称賛する時もあるだろう。見るものきくもの(山吹の花のすばらしい色彩と香り)に付けて、女の心に思うことを言い出した歌である。
雨後の山吹の花の色彩と香りのすばらしさを称賛した歌とのみ聞くのは、平安時代の歌論や言語観を無視して、長年に亘って、遠く離れた文脈に居るからである。そこではもはや誰もが、その一義な歌の解釈が正当だと思うだろう。その常識を不当だと主張し改革しようとしているが、まともに常識と戦えば膨大なエネルギーと時間を要するのでしない。
本物の歌の真髄が明らかになれば、皮相な意味の偽物の解釈は恥じて存在し得ないだろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)