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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、「言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)」を心得るべきである。さらに、藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も。
古今和歌集 巻第七 賀歌 (354)
(本康親王の七十の賀の、後の屏風に詠みて書きける。素性法師)
伏しておもひ起きてかぞふるよろづ世は 神ぞしる覧わが君のため
(仁和帝の弟の・本康親王の七十の賀の後の屏風に、詠んで書きつけた・歌)そせい
(伏して思ひ起きて数える万世のことは、神ぞ知る、神が御覧になるでしょう、わが君の為に……伏して思い立ち起きて数える・気になる、よろづ夜のことは、かみ(女)ぞしる、見るでしょう、わが貴身の多女)。
「神…神さま…かみ…言の心は女」「しる…知る…汁…にじむ…潤む」「覧…らん…らむ…だろう…ご覧になる…見る…見とどける」「見…覯…媾…まぐあい」「ため…為…多め…多くの女たち…多気のおんなたち」。
気がかりな万世の後のことは、神ぞ知る、御覧になっているでしょう、わが君の為――歌の清げな姿。
気になる万夜のことは、かみ(女)の身がしる、見るでしょうね、わが君の多女たち――心におかしきところ。
古今和歌集 巻第七 賀歌 (355)
藤原三善が六十賀によみける 在原滋春
鶴亀も千年の後は知らなくに 飽かぬ心にまかせ果ててむ
この歌は、ある人、在原時春がとも言ふ。
(藤原三善の六十賀に詠んだ・歌)在原滋春、又は時春)
(鶴亀も千年の後は、どうなってるか・知らないのだから、生きることに飽きない心に任せて、命は果てましょう……鶴亀も千歳の後は、知らないものを、飽きることない好き心に任せて・気にせずおとこは、果ててしまおう)。
「なくに…(知ら)ないのに…(知ら)ないものを」「あかぬ…飽きない…満足しない」「てむ…(果てて)しまおう…その情態の実現への意志を表す」。
千歳長生きしてしても、誰も知らないのだから、生きることに飽きない心に任せて、生きたいだけ生きて果てましょう――歌の清げな姿。
君の貴身も、千歳の後は知れないのだから、満足できない好き心に任せて、果てたい時に果てましょう――心におかしきところ。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)