帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(60)み吉野の山べに咲ける桜花

2016-11-01 19:10:30 | 古典

             


                          帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上60

 

寛平御時后宮歌合の歌            友則

み吉野の山べに咲けるさくら花 雪かとのみぞあやまたれける

「寛平御時后宮歌合」の歌              紀友則

(み吉野の山辺に咲いた桜花、雪かとばかり見間違えたことよ……身好し野の、山ばの辺りに咲いたおとこ花、白雪か・白らじらしい逝きか、とばかり、ひとに・思い違いされたなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「み吉野…吉野地方の名…『み』は接頭語、名は戯れる物、見好しの、身好しの」「野…山ばでは無いところ…ひら野」「山べ…山の周辺…山ばの頂上ではないところ…未だ達しないところ」「桜花…(ぶれずに毎度述べてきた通り)木の花の言の心は男花…おとこはな」「雪…逝き…白雪…冷ややかな逝き…白々しい逝き」「あやまたれける…間違えられたことよ」「れ…る…(自然にそうなる)自発の意を表す…受身の意を表す」「ける…けり…気付き・詠嘆の意を表す」

 

吉野の山辺に咲いた桜花、残り・雪かとばかり、見間違えることよ。――歌の清げな姿。

見好し野の・身好し野の、山ばにかかる辺りで、さいたおとこ花、冷ややかな逝きとばかり、おんなに・思い違いされたなあ。――心におかしきところ。


 「あはれ」で「をかし」き歌である。

 

『寛平御時后宮歌合』は、詳細不明ながら、春歌、夏歌、秋歌、冬歌、恋歌を、それぞれ数首づつ当代の歌人に詠ませ集めたものと、宮の内の女たちの歌を合わせて、「心におかしきところ」の相対応する歌を二首組み合わせて、四季それぞれ二十番四十首と、恋歌二十番四十首と合計二百首を編集したものと推定される。古今和歌集の先駆けである。

 

この左の歌に合わされた右の歌は、よみ人しらず、(女の歌として聞いた)

年のうちはみな春ながら果てななむ 花を見てだに心やるべく

(年内いっぱいは、みな春のままで終わってほしい、花見しながら、心晴れ晴れ出来るように……疾しの内は・利しの内は、おんなは・春ながら、貴身・果てて欲しくないの、おとこはな、見ながら、春の情が慰められるように)

 

「年のうち…年内…一年中…疾しのうち…早過ぎる一時…利しのうち…激しいうち」「春…季節の春…情の春…身の張る」「はてななむ…果ててしまって欲しい…果てないでほしい」「なむ…実現へ強い意志を表す…強い願望を表す」「な…意志希望を表す…禁止する意を表す」「花…木の花…桜花…男花…おとこはな」「見て…花見して…はなを見て」「見…思う事…覯…媾…まぐあい」「心やる…心晴らす…心を慰める」「べく…べし…可能を表す」。


  女性の心に思うことを「清げな姿」につけて言い出した歌。友則の山ばの周辺で咲いた歌と合わせるのに相応しい。

 

和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視して行われてきた。貫之のいう「歌の様」を知らず「言の心」を心得ない解釈は、歌の「清げな姿」は見えても、「心におかしきところ」は顕れない。「心におかしきところ」が心の琴線に触れた時、「あはれ」とか「をかし」と平安時代の人々は言うのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)