帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(119) よそに見てかへらん人にふぢの花 

2017-01-07 19:11:11 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下119

 

滋賀より帰りける女どもの、花山にいりて藤の花の下に

立ち寄りて帰りけるによみて贈りける      僧正遍昭

よそに見てかへらん人にふぢの花 はひまつはれよ枝はおるとも

志賀より帰ってきた女たちが、花山寺の境内に入って、藤の花の下に立ち寄って帰ったので詠んで贈った・歌……至賀より返ってきた女性たちが、華の山ばに入って、おとこ花の下に立ち寄って帰ったので詠んで贈った・歌    僧正遍昭

(よそよそしく一瞥して帰ろうとする人に、藤の花、這いまつわれよ、枝は折れようとも・お引き止めしろ……よそよそしく思って帰る女に、垂れ房のおとこ花・わが身の枝、這いまつわれよ、枝は折れようとも・道心は挫折しょうとも)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「よそに…他所に…よそよそしく…よそ物に」「見て…思って…一見して…いちべつして」「藤の花…木の花…言の心は男…夫肢の端…垂れているおとこ端・女たちがよそよそしく一瞥しただけで去った理由らしい」「枝…蔓性の枝…身の枝…出家したとはいえ生命力は残る吾身の垂れ枝」「おる…をる…折る…折れる…折られる(受身)…挫折する」「とも…たとえ何々であっても…たとえ何々となろうとも」。

 

よそよそしく花を見て帰る女人に、藤の花、蔓の枝這いまつわれよ、枝折れようとも・引き止めてくれ。――歌の清げな姿。

垂れる花房・よそよそしく一べつして帰る女に、不死の・夫肢の、身の端、這いまつわれよ、たとえ折れようとも・たとえ道心挫折しょうとも。――心におかしきところ。

 

「法師をこんな思いにさせる、艶めかしく色香溢れる女達よ」、此の思いが伝われば、女達は「あはれ」とも「をかし」とも感じ心和むだろう。これが歌である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)