私が、強酸系の組織に所属するのを家族はとても嫌がっていました。
公的なところから勧誘されていてその時そちらを選んでいたら公務員になれたのに、と、あとからしつこく言われました。
でも、なぜ そちらを蹴って 強酸に(近い組織へ)入ったかというと
「知りたかったから」
と
「その人たちが、魅力的に見えたから」
です。
反骨精神もあったし、なにより世の中の仕組みを勉強して
変えて行こうという意欲と実践があった。
おなじような会社組織をいくつかみてきたなかでも
とびきり 管理職と平社員の距離が近く、意見交換をしやすかったし、
仕事を良い方向へ変えていく変革への勢いがある
言うなれば、生きがいい会社でした。
なのに、世間一般では
「思想が」というレッテルを貼られてしまう組織でもあった。
なぜなのか、それを知りたかった。
家族は、「思想教育を危惧している」と言っていました。
たしかに拘束時間は長く、いろいろな無料のボランティア的な労働奉仕が多く、
職員同士の関わりが濃く「染まりやすい」土壌はあったと思います。
ただ、私が今回の「枠」のことを「おかしいから拒否する」ことをしたのと
同じように、染まるひとと、染まらないひとがいる。
そこは、染まろうと染まるまいと、そこは自由でした。
誰かが何かを言っているから、これ以上は言ってはいけないという
「空気」はなかった。そういうものが苦手な私にはまだ居やすい場所だったかも。ただ、あの仕事が向かないし、もっと自由に、他のことも知りたかった自分にはあの職場はむいてなかった。
一つの道に邁進するのもいいけれど、それをずっと貫くということが
せっかくこの地球に生まれてきたのにもったいない気がして
共振的にも狂信的にも だいたいなれない。
いつも、どこかに疑問を持っている。
思想教育したい人、
全体しゅぎにもっていきたいひと
にとっては
こういう人は、
都合わるいでしょうね。
どうでもいいやとも思わない。
ただ、人が一つの方向に やたらと連れていかれるのは、
「その人の選択権を犯す恐れがある」ということを危惧します。
一人一人が、自分の考えを持つこと
それに自分で責任をもつこと
それに、本人が後悔しないこと。
それが大事だと思う
だれかに認められるとかそういうことではなくて
誰かに褒め称えるとか、もてはやされるとか
そういう場で「自分はこう言う人間だ」と
思い込まないほうがいいです。
コントロールから離れて
自由に じゅうぶんなあそびのある場で
自分というものを見つめるといいと思います。