ある人の記事で、
ある戦闘員が、ある権力者に殺害されたというエピソードを見た
要するに、戦争なのだから、敵兵を殺害する、と言うことは
当たり前の行為なのだけれど、
その敵兵とは、その国の兵士ではなく、
傭兵といって他の国の兵士だったから
記事になり得たのである。
これが本当かどうかなどということを
私はわかるはずもない
ただ、言えることは
傭兵として潜入した戦争において、
相手国の兵士 または国民を殺害するように
教育された兵士の強固な意志は
どうやって作られたのだろうか、と言うことである。
自分の国を護るためという大義がある場合ならまだわかるが
傭兵が命がけで(情報を漏らさないよう)雇った国の情報を護りながら、
相手国を破滅に追いやろうとするという強固な意志を持ちうるには
洗脳だとか、すくなくとも強い影響力のある「教育」なくして
あり得ないと思うからだ。
今の日本でも思うのだけれど、
社畜と自分を嘲りながら、非人間的な社会生活を晒すYouTuberだとか
自分の人生、命、家族なのに、なぜか社会へ「捧げてしまう」姿をみる。
こんかいのinjectionもそう。任意と「義務」の間で
自分の命を守れなかった人たちが、どのくらいいるんだろうか。
自殺だってそうだ。自分を尊重するということが、どこか欠け落ちてしまう。
だれかを尊重するのはもちろんいいことだけれど、
自分を尊重しない人が、真の意味で人を尊重することができるかというと
疑問である。それは自己犠牲であって、
「俺もこうしたのだから、おまえもそうしろよ」という無言の圧力であってはならない。どの人にも、自分の命を救う権利がある。
だれもが、自分の意志で、誰かによって命を決められるということを
拒否しなければならないと 私は思う。
そうでなければ戦争は終わらない。
そうでなければ、犠牲は終わらない。
だから、人が 一人一人、健全な 自己を持つ
健全な脳の働き、
健全な心の動きを維持すると言うことは、
とても大事なことなんだなあ、とつくづく思った。
この殺害されたとされる兵士だって
本当に 本心から殺害されたいと思ったはずはない
どこかで、強烈な教育に晒された上での「自己意志」でもって
命を捧げてしまったのだ。
正しいのか、間違っているのか、という問題を
超越して、
一人一人が健全な自分の
本来の健康と幸せを優先して、すこやかに生きることを選択すれば
この世の中は、ずいぶん違う世界になるのではなかろうかと思った。