一昨日、つんまらん地上波を避けて
BSにて時事以外の番組を探していたところ、
司馬遼太郎さんがモンゴルに行った時の紀行番組(番組名忘れた、おそらく街道を行くのモンゴル編)
をしていた。
やく25年前のモンゴルである。
広大な起伏のある大地どこまでも続く草原に、
強靭で朗らかな人たち
彼らは、驚異的な体力をもち
圧倒的な物欲の無い人々
放牧した動物たちを追いかけながら暮らすため、
余計なものを持つことがかえって邪魔になるからだ。
これだけの広大な起伏ある土地を歩き回るのだ
子供の頃から、水汲み、家の手伝いなど
こんな人たちにかなうわけないわ
とは昔から思っていたけれど、
もちろんその予測は当たってしまっている。
ウランバートルの様子
今は違うのだろうけど、
旧ソ連の援助を受けて共産化したので、
建物もロシアっぽい様式である。
スターリンの像が横たわって保存してあった。
その取材の中で
日本語通訳の女性がでてきた。
年は70代
彼女は日本語を学んだせいで、
迫害されたらしい
その頃の時代背景は知らないが、
夫を残して、モンゴルに娘と共に戻ったという。
中国(漢民族)の言いなりになって、そのように生きるか
それとも 自分の意思で人生を過ごすか、という人生の選択を迫られたらしい。
結局彼女は夫を残して、モンゴルの大地で生きていく決意をした。
自分の国があるのだから、そこで生きるのだと。
その中国になぜ滞在していたのか、その頃の政治状況がどうだったのかしらない。とにかく、モンゴルの人たちは、中国と旧ソ連の間に挟まれて
モンゴル人の文化、あるいは日本語を学ぶという自由を、
中国(漢民族と言っていた気がする)から迫害されていたということがあったようだ。
結局、夫は投獄されて
再び逢えたのは、60歳を超えてからだったという。
夫と出会った時、彼女は
「自分に逢ってから死ぬつもりできたのだな、と思った」と
投獄されて、拷問にでもあったのか、旦那さんは脊椎に重大な損傷を受けており、大変な状態だったという。
そして、旦那さんは亡くなった。
彼女は、
「悪く生きるよりも よく死ねということわざがモンゴルにはある」
と言っていた。「夫はそのように生きたのだ」とも言っていたように記憶している。
彼女と、娘さんの顔は とても清々しく、誇りに満ちた表情だった。
日に焼けた肌に美しい絹の衣装を着ていた。
娘さんも大学の教授だとか、かなり聡明な人々なんだろうなと思った。
だれかの言いなりになってそれなりに裕福に暮らすか
それとも
自国の文化を大事にして、自分の魂に忠実に生きるか
その選択を迫られた時
自分はどうするだろうか。
あの笑顔でもって老後を迎えられるか、
それとも?
なんて思った。
関係ないけど、モンゴルの人は、鼻の根本のくぼみがなくて、
額からまっすぐに鼻先まで高さがあまり変わらないんだなあと思った。
あと、頬骨が高い。
あと、印象的だったのは漢民族は 土地を掘って耕す
モンゴルの人は、草原の草を 土地の「皮膚」とみなして、そこを耕すことは、皮膚を侵襲することのように嫌った 遊牧民というのは、土地を大事にして、そこから栄養を得た動物から享受できる養分を頂く人々、
という感じの話。
昔、階級ができたのは農耕が始まってから、というのをどこかで読んだことがある。出来上がった作物を貯めておくということができるようになってから
「多く持つもの」と「少なく持つもの」の格差ができたのだと。
それから戦争も起きるようになったとか、そんなこと。
放牧して暮らす人々は、貯めておくことはできない(しない)から、
分かち合う文化になる。。
高地で暮らすモンゴルの人々の心の豊かさと、
低地で暮らす、他の民族の人々の奪い合う思想の対比もまた、印象深かった。