もう何年も闘病生活を続けていた伯父が2日の深夜に他界したので
葬儀に参加するため、会社を休んで舞鶴へと行って来ました。
伯父の家は、舞鶴の中心街から少し離れた住宅街の中、
坂の途中にある、ごくありふれた日本家屋。
その家は、私の遠い記憶の中のものと変わらぬままでしたが、
部屋の中は、当時よりなかり狭く感じました。
写真は、そんな祖父の家の空を撮ったものです。
今からおよそ30年前。
小学生だった私は、夏休みになると本家の従兄弟達と一緒にこの家を訪ね、
海水浴や虫取りにと、楽しい時間を過ごしました。
私の海水浴の思い出は、殆どが日本海、舞鶴周辺でのもので、
伯父はよく私達、従兄弟連中を海へと連れて行ってくれたものです。
しかし、決して優しいだけの伯父ではありませんでした。
背が高く、強面の伯父は、いわゆる「父親」という存在を知らない
私にとって、「コワイ親父」の代表…みたいな印象で、
よくイタズラをしたことを怒られたものです。
子供心に伯父の前では、いつも少し緊張していたのを覚えています。
そんな伯父が、定年を迎えてから時間が出来たのか、
突然「釣りをしに来ないか」と電話してきた時には、
「あの伯父が?!」と、ビックリして、どうしてよいかわからず、
何となく答えを流してしまったことがありました。
それほど私の中では、「コワイ親父」という印象だったのです。
そんな伯父がこの世を去りました。
舞鶴港にある海上自衛隊基地で定年まで勤め上げた伯父。
京都の本家の血筋なのか、根っからの技術屋だった伯父。
棺に移すために持ち上げた伯父は、あんなにガッチリしていたのに
病気のせいか、痩せて、思った以上に軽かった。
出棺の時に鳴らされるクラクションが、静かな住宅街に響いた。
隣で見送っていた母が泣きながら
「もう二度とこの家には帰ってこない」とつぶやいた。
伯父を乗せた黒塗りの車は、幼い時、あんなに長く感じた坂道を
あっという間に降りて見えなくなった。
見送ると同時にこらえきれなくなった伯父の家の空から大きな雨粒が落ちてきた。
葬儀に参加するため、会社を休んで舞鶴へと行って来ました。
伯父の家は、舞鶴の中心街から少し離れた住宅街の中、
坂の途中にある、ごくありふれた日本家屋。
その家は、私の遠い記憶の中のものと変わらぬままでしたが、
部屋の中は、当時よりなかり狭く感じました。
写真は、そんな祖父の家の空を撮ったものです。
今からおよそ30年前。
小学生だった私は、夏休みになると本家の従兄弟達と一緒にこの家を訪ね、
海水浴や虫取りにと、楽しい時間を過ごしました。
私の海水浴の思い出は、殆どが日本海、舞鶴周辺でのもので、
伯父はよく私達、従兄弟連中を海へと連れて行ってくれたものです。
しかし、決して優しいだけの伯父ではありませんでした。
背が高く、強面の伯父は、いわゆる「父親」という存在を知らない
私にとって、「コワイ親父」の代表…みたいな印象で、
よくイタズラをしたことを怒られたものです。
子供心に伯父の前では、いつも少し緊張していたのを覚えています。
そんな伯父が、定年を迎えてから時間が出来たのか、
突然「釣りをしに来ないか」と電話してきた時には、
「あの伯父が?!」と、ビックリして、どうしてよいかわからず、
何となく答えを流してしまったことがありました。
それほど私の中では、「コワイ親父」という印象だったのです。
そんな伯父がこの世を去りました。
舞鶴港にある海上自衛隊基地で定年まで勤め上げた伯父。
京都の本家の血筋なのか、根っからの技術屋だった伯父。
棺に移すために持ち上げた伯父は、あんなにガッチリしていたのに
病気のせいか、痩せて、思った以上に軽かった。
出棺の時に鳴らされるクラクションが、静かな住宅街に響いた。
隣で見送っていた母が泣きながら
「もう二度とこの家には帰ってこない」とつぶやいた。
伯父を乗せた黒塗りの車は、幼い時、あんなに長く感じた坂道を
あっという間に降りて見えなくなった。
見送ると同時にこらえきれなくなった伯父の家の空から大きな雨粒が落ちてきた。