居場所について(2)

2011-08-21 22:47:06 | 自分の思想をめぐる冒険
昨日の続きです。

昨日バイト後に更新しようと思ったら、外国人からいきなりスカイプ通話がきて、更新できませんでした(笑)

失礼しました。



さて、


「集団ありきでの個人」なのか、それとも「個人ありきでの集団」なのかが、ことの分かれ目になってくるとは思うんですが、


日本の場合(というか、他の国に関しては殆ど知りません)、前者の力が圧倒的に強かったのが、従来でしょう。

幼稚園から始まり、小学校、中学校、高校、大学…
専門学校なども含まれます。

また、学校を卒業してからの会社(というよりは、「職場」という表現のほうがしっくりくるかも)。


こういうのは先に、集合体が存在して、その中に個人が組み込まれています。

そして、そこに属していると、それ以外の人、世界との交流がとてつもなく少なくなってしまう。


僕はまだ、きちんと会社で仕事をしたことがないので、学校を例に取りますが、


特に、学校の友達・部活仲間・家(に加えて、塾の友達というのもあるかも)との関わりが、様々な人との関わりの90%以上を占めるであろう、中学校や高校という場では、その「場」に居づらくなったとしても、その代わりに自分が安心していれる場所が殆どない、というのが問題だと思います。

不登校や学校問題に関する新書を読んでいると、「学校に行きたくないけど、親(家族)は学校に行けという」という描写が多々出てきます。

つまり、その人にとって、自分が(物理的に)存在できる場所は、どれだけ多くても学校(クラス)か家か、あって部活動の場である。

でもまあ、そういう「場」というのは、当然いろんな軋轢があったりして、価値観が合わなかったりすることが多いわけですよ。
(僕も高校の時は、そんな違和感が幾度となくありました)


で、一方で不登校の人同士が集まるようなフリースクールというのは逆に、「個人ありきでの集団」として機能していると思います。



言い換えると、「個を尊重できる場」である。



以前、デンマークに関する本を読んでいると、そこには「生の学校」という、「フォルケホイスコーレ」が存在するみたいです。

これについては端的に説明できませんが、いろんな地方、国から人が集まって、国籍も言葉も年齢も関係なく、共に学べる場、といった認識を持っていただければいいです。


そのフォルケホイスコーレでも見られるのは、「個人を尊重する」というか、「こんな生き方があって、こんな人もいる。そういうのを肯定しあうことで、お互いを認め合う」ということで、日本の学校だと、なかなかそれができないんじゃないか。

もちろん、生徒の構成年齢も違う(日本は同じ年齢が集まるが、フォルケホイスコーレだと幅は広い)し、
日本だと、小さいときから育ってくると、どうしても「集団に属するのがいい」と教え込まれる(雰囲気的な影響も含めて)ので、家族とか学校とかも、その場からあぶれる人に対しては、うまくフォローできないのではないか、と。


で、個の尊重という切り口からすると、話がごっそりと変わってしまいますが、SNSの力はすごいです。


前回も少し書いていましたっけ。


特にTwitterやFacebookを使っていると感じるのは、この世界は正に「個人ありき」で成り立っているということ。


特にFacebookは、実名登録・情報公開が前提ですから、「自分」というのが前面に出てくるわけですよね。

そんでTwitterも、これは人によって違っていますけど、僕は同様に、情報をオープンにしています。

Twitterを使っていると、同じように情報公開をしている人とは積極的に絡んでいますし、それによって更に人との繋がりが増えていく。

その上で、お互いを尊重できる環境が自然にできてくると思います。
実際に(単に僕がオープンなだけかもしれませんが)人と実際にお会いして話すときは、人の考えとか価値観を吸収しています。


Twitter上だけのやりとりに終始してしまうことも時々ありますが、

僕にとってこのようなSNSは「実社会の延長」である側面が強いです。

だから、半ば強引な話かも知れませんが、


SNSは居場所になりうるんじゃないか。


もともと、昨日紹介した本『迷子の時代を生き抜くために』では、

「日本には「社会」は存在せず、「世間」しか存在しない」
と書かれていますが、

その「社会」に該当する部分を、まさに「ソーシャルメディア」は作り出したのではないか。

なんといっても、「ソーシャル」ですから。


例えば、中学校や高校にいたとして、クラスにいることに違和感があっても、SNSを使うことで、自分が存在する場所を別に作ることができる。


あ、一つ付け加えておくと、「匿名」では意味がありません。

例えばmixiであるとかにちゃんねるであるとか、匿名を前提にしたSNS系統では、あくまで自分は「隠す」存在になってしまっていますから、それではなんというか、「世間」の中に浸かっているというか。


そうじゃなくて、自分のことをオープンにさらけ出して、学校とか会社以外の場所(その一つがSNS)で、他人の存在を認めつつ自分の存在も受け入れてもらう、ということが、可能ではないかと思います(ただ個人差は必ずあって、どうしても「私は自分のことを堂々とさらけ出せない」という人が存在するのも、また事実化と思います)。


「世間」が「集団ありきの個」なのであれば、


「社会(ソーシャル)」は「個の存在」が前面に出てくる場所であり、


その上で新たなコミュニティを作ることやビジネスパートナーと出会う、ということだって、全然不可能な話ではないと思います。

もともと存在する、集団ありきの場所ではなく、個が主体となるソーシャルという「場」は、これからどんどんとその力を強めていくだろうと、強く確信しています。


あまりまとまっていないかもしれませんが、この辺で。

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