日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

礼拝と礼拝説教の予告

2015-09-15 02:32:47 | 大分中央ウィークリー

9月20日 故人記念礼拝朝10:20.

説教「神の業がこの人に現れるため」.聖書: イザヤ書42章5~9節,ヨハネによる福音書9章1~12節.交読文35.讃美歌7, 351,463, 28.

夕礼拝18:30.

説教「心に光を与える神」.聖書:創世紀1章1~5節,マタイによる福音書6章1~8節. 夕讃美歌219, 353,475,28. 

 

9月27日朝礼拝10:20.

説教「もう大人ですから、本人にお聞きください聖書:列王下2:8~15,ヨハネ9:13~23.交36.讃8, 353,464, 29.

夕礼拝18:30.

説教「信仰と実践」.聖書:出エジプト記20章1~11節,ローマの信徒への手紙12章1~8節. 夕讃美歌220, 352,462,29. 

 


プロテスタントとカトリック

2015-09-15 02:24:17 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(329)

4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―

そこで彼が目にしたものは初代の「純正な」と思われるキリスト教信仰の姿からの乖離であった。今日の日本で見る諸宗教の姿に良く似ていた。一言で言えばキリスト教の世俗化であり、日本的にいえば、ご利益宗教になりきった有様であった。このころからツヴィングリはアウグスチヌスなど古代教会の教父たちの著作に学び始めた。1516年に刊行されたばかりのエレスムス編のギリシャ語の新約聖書を耽読し始めたといわれる。ルターの場合もそうであったが、人には聖書を読むことから新しい世界が始まるのであった。

  さて、二年間のアインシーデルン滞在中に、ライン河のかなた、世界史的な出来事が起こっていた。ルターの「九十五箇条の提題」(ここまで前回)という学生たちとの討論としての語り掛けと、それが吹き起こした世界的旋風であった。もっとも、ツゥイングリ 自身は、宗教改革への自分自身の取り組みはそのルターとはかかわりなしに独自のものであったことを繰り返して強調している。すなわち、「わたしはルターよりも先に「福音の真理を、聖書に導かれて発見していた」という。また言う。「ルターから学んだものは、ただ立ち上がって、すでに信じていたことを語りだす勇気であった。」この意味ではルターの働きは大きいといえるかも知れない。コロンブスの卵であった。しかし歴史神学的な意味では福音の先陣争いは無用であり、神の歴史的働きといわねば(つづく)

 


聖書研究

2015-09-15 02:21:01 | 大分中央ウィークリー

創世記21章25節である。「アブラハムはアビメレックの部下たちが井戸を奪ったことについて、アビメレックを責めた。」という。この地域では具体的な問題として井戸の確保が重要であった。ここに誓いの返事をした後であるから、不自然なように見えるが、首長としてアビメレックが具体的にその部下たちの不始末の報告を受けていなかったようである。互いの大きな集団を抱えるのであるから確認が必要であった。

 

具体的には、責任を責めることになるが、アブラハムの方は、誓約の内容を深める意味でこの確認を持ち出したようである。大きな器同士の誓約の重さがその確認に現れている。地名「ベエル・シェバ」の意味は先に「聖数を使っている」としたが、「七つの井戸」の意味である。アブラハムの長期滞在の聖なる場所となった。

 

26節である。「アビメレクは言った。『そんなことをした者がいたとは知りませんでした。あなたも告げなかったし、わたしも今日まで聞いていなかったのです。』」という。「そんなことをした者がいた」と。意外性というより責任を伴っての言葉のようである。なぜならこの地域ではトラブルといえば必ず家畜を養う水の問題であった。注意しておりながら起こる問題である。そのつど責任を逃がれられない。

 

 アビメレクの誠実さを、その言葉が表現している。その責任はすべて彼自身が負うという覚悟の表明であった。知るに至る時間が今日に及んだが、これからの問題として対処しましょうという意思表明である。それはまた、農耕生活日本人の発想のように「今後二度と過ちがないようにしよう」というものでもない。ある意味ではお互いの動物保護への対応の慣習的な過ちを認め合っているということである。


牧 会 通 信

2015-09-15 01:49:31 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第11歌(カッコ内は筆子、その3)

◯「下りるのはもつと後にせねばならぬ、まづ感覚がたまらぬ臭気にすこし慣れるやうに、さうすればあまり気にならなくなるだらう。」

かう師が言つたので、「なにか償ひを」とわたしは言つた、「みつけて下さい、時間がむだに過ぎないやうに。」すると言つた、「わたしもそのことを考へてゐるのだ。」

「息子よ、破壊されたこの岩石の下には、」と師はやがて口を切つた、「いままでの圏(かこい)とひとしく、段段を成してもつと小さい三つの圏がある。」(ここまで前回 )

◯みんな呪われた霊たちでいつぱいだが、これからは見るだけで分るやうに、聴くがよい、どのやうに、なぜそのものたちがギシギシ詰込まれているか。

天界で憎まれるあらゆる悪の目的は、障害で、この非道な目的は、

暴力か欺瞞で他人を苦しめる。

  だが欺瞞は人に特有の悪なので、一層神に嫌はれる、だから欺瞞者たちは下にゐて、一層激しい苦痛に攻め立てられてゐる。(つづく)

 

◯2015年9月13日は、今年の第三十七主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「御名の栄光」という主題である。聖書は列王記上8章14~20節、その20節「主の御名のためにこの神殿を建てた」と。ソロモン王の偉業であった。しかし、今や御名の栄光の神殿はイエス・キリスト、そのお方 (ヨハ2・21)となった。

 

◯写真は、高齢者対策で夏期休会であった水曜祈祷会が9月9日再開されました。御出席ください。