夕礼拝 2015年9月13日(日)
説 教 「御名の栄光」 牧師 南茂 昭夫
列王記上 8章 14~ 21節
使徒言行録 7章 44~ 50節
賛美歌 218、 352、 474、 27
(1)
本日は、列王記上8章14~21節の本文によってキリスト教会の説教をいたします。その14節です。「王は振り向いて、イスラエルの全会衆を祝福した。イスラエルの全会衆は立っていた。」といいます。この書の名称は「列王記」であるが中国語訳聖書から来たものです。しかし原文はヘブライ語聖書では「諸王」であります。「王(ハ・メラク)ダビデは」から始まっている。その「王」(メラク)の言葉を複数にして「マラキーム」(諸王)というのがヘブライ語原文の名称であります。日本語の「列王記」としたのは名訳です。
名称は一つなのにヘブライ語原文の、いつの時か不明ですが、分量が多いので便宜上ⅠとⅡに、ほぼ二等分にして、日本語ではそれを「上」と「下」に分割されました。その内容はダビデ王の最後(前965年ころ)から始まって、バビロン捕囚(587年)までの歴史を歴代の王を並べて綴ったものです。
(2)
さて、本文に入ります。先に読みました14節です。そこでは、「イスラエルの全会衆は立っていた」とあります。これは継続的に立っていたという意味の言葉であり、厳粛な立式儀式を現わしています。また「全会衆」といいますが、この8章1節が参考になります。「ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに招集した」とあります。
わたしたちが今日、関心を持つような人数については一切触れていません。ただ歴代誌を書いた申命記歴史家はささげものの数をこの時、「ソロモン王は牛二万二千頭、羊十二万匹をささげた」(歴下7・5)といっています。また列王記のここでいわれている8章12節に「ソロモンはそのときこう言った。」といわれる「そのとき」とは、いつの時かというと、2節に、「エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに」とありますから、わたしたちがヨハネ福音書でもいわれている秋の仮庵の祭りの時でありました。ささげものの数からして、仮に10人に対して牛一頭または羊一匹としますと10倍の20万~30万の人数がエルサレムの集まっていたものと思われます。その話の内容は、12~13節でソロモンが神の箱に向かって「密雲の中にとどまる、と仰せになった。」と。主なる神に祈るようにして、そのように語っています。
(3)
13節、「荘厳な神殿を いつの世にもとどまっていただける聖所を わたしはあなたのために建てました。」と神殿建築が完成して、感謝を込めて祈るのでありました。それと平行するようにして14節です。今度は先ほどの、おそらく肉声で聞こえる範囲の会衆に向かってであろうと思われますが、大勢の会衆の方に向いて語りだしました。それは会衆への一つの説教となりました。「イスラエルの全会衆を祝福した」とありますから、神殿建築完成の祝福を兼ねて語る説教でありました。自分がこの神殿を建てるようになる、歴史的経緯を語るのであります。つまりすべて人間の業ではなく、主なる神がわたしを用いてなさる神の業であったことを縷々語るのでありました。
まず15~16節です。「王は言った。『イスラエルの神、主はたたえられますように。主は自ら語り、わが父ダビデに約束なさったことを御手をもって成し遂げ、こう仰せになった。「わが民イスラエルをエジプトから導き出した日からこのかた、わたしの名を置く家を建てるために、わたしはイスラエルにいかなる部族の町も選ばなかった。わたしはただダビデを選び、わが民イスラエルの上に立てた」と。』」とあります。
「わたしはイスラエルにいかなる部族の町も選ばなかった。」といいます。どの部族にも属していなかったエルサレムをダビデが、首都として選んだのでした。これは不思議な神の知恵でありました。それをソロモンがここで思い出させているわけです。創世記14章18節に出て来るのですが、アブラムを祝福したメルキゼデクが王として治めていたのが「サレム」といわれているエルサレムの町でありました。それゆえ政治的にどの部族をも平等にソロモンが治めることができたのでありました。「御名の栄光」はそのようなところにも現れていたということであります。
その関連で話を続けます。21節です。「またわたしは、そこに主との契約を納めた箱のために場所を設けた。~」といいます。この箱は神の御臨在を現わす箱であり、特別な権威があり、かつ力がありました。それゆえに、後にいろいろ問題を抱えながらもソロモンは神殿中心にして国を中央集権的に治めることができました。神殿建設の神の祝福の説教はこのようにして歴史的には限定された一時期に限られますが、立派な神の御名の栄光であります。
(4)
新約聖書は使徒言行録7章47~48節です。「神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いとき方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」と。これはソロモン自身も知っていました(列上8・27)。けれども誰も対応できません。今やその時が来ました。神殿は不要になり、キリストが礼拝を受けてくださるのであります(ヨハ2・21)。
救い主イエスの父なる神よ。大人も子供も、目に見える神殿を必要としません。どうか目に見えない十字架と復活のキリストを礼拝させてください。原発が再び稼働されました。当事者に原発の危険をより強く認識させてください。若者にはキリストの十字架の贖いの恵みを、病人には癒しを、高齢者には復活の命を、神学生には勉学の力を、主の御名よって、アーメン