日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

次週の礼拝説教の予告

2017-09-01 01:31:37 | 大分中央ウィークリー

2017年9月03日朝礼拝10:20.

説教:「主の御心が行われますように」説教者 牧師 南茂昭夫

聖書:イザヤ書53章1~6節,使徒言行録21章1~16節.交読文36.讃美歌149,461,298,24.

 

同夕礼拝18:30

説教「真の知恵」. 説教者 南茂昭夫

聖書:列王記上(説教本文)3章3~15節、コリントの信徒への手紙一 2章11-16節、

夕讃美歌7,357,579,24.

 

 

2017年9月10日朝礼拝10:20.

説教「みだらな行いを避けるようにという決定」

聖書:申命記6章4~9節,使徒言行録21章17~26節.交読文37、 讃美歌492,474,483,27.

 

同夕礼拝18:30

説教「永遠の思い」

聖書:詩編45編2~18節、ヨハネによる福音書6章66-69節

夕讃美歌149,567 ,577,27.


プロテスタントとカトリック

2017-09-01 01:26:21 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(426)     近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その66)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

5.肉のよみがえりについて、世界の大部分 

   の人はこれを受け入れているのに、中に

   はこれを否認する者もいる。

  そこで、全部で三つの信ずべからざることがあることとなる。そして、それらはことごとく生起したのである。キリストは肉においてよみがえり、肉をもって天に上げられた。このような信ずべからざることを世界が信じた、という事実がまことに信ずべからざることである。さらに、世界中が、ことに学者たちが、少数の素朴で身分も低く、学問もない人たちによって全く説得されたということも、信ずべからざることである。……

  6.ローマロムルスを神としたが、それは彼を建国者として敬愛していたからである。教会がキリスト

      を 愛するのは、キリストをとして信ずるからである。(前回はここまで)

  ……ローマ人の怒りを引き起こすかも知れないという些少な恐れでさえも、隷属都市をしてロムルスを神として崇めさせるに十分であった。しかし、もっとも大きな恐怖、すなわち単に怒りを引き起こすだけでなく、恐るべき刑罰、いな。あらゆる恐れの中でももっとも恐ろしい死でさえも、多くの殉教者が全世界のどこででも、キリストを神として礼拝し、そう宣べ伝えることを止めさせられなかった。……  そうであるにせよ、神の国の救いはただ信仰とともに・信仰によってのみ保たれ、いなむしろ獲得される。(つづく)~(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-09-01 01:24:36 | 大分中央ウィークリー

創世記24章50節である。「ラバンとベトエルは答えた。『このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。』~」といったという。「ラバン」はイサクの嫁となろうとしている「リベカ」の兄である。彼はリベカの身につけていた豪華な贈り物に驚いて、町外れの泉のほとりまで走ったのは、当然のことながら、どちらかと言うと物質に関心の強い男のようであった(15節参照)。

 

そして「ベトエル」は、「ラバン」とその妹「リベカ」の兄妹の父である。アブラハムとの関係は、ベトエルの伯父に当る。つまりアブラハムの弟ナホルとその妻ミルカとの子であった(22・20~23)。従ってイサクの嫁になる予定の「リベカ」は、再従兄弟との結婚になる。現代的には血縁関係はかなり近いのであるが、古代では普通であった。かえって衆生がよく分かって安心できたのであろう。

                                                

51節である。「~『リベカはここにおります。どうぞお連れ下さい。主がお決めになったとおり、ご主人のご子息に妻になさってください。』」と答えるのであった。「主がお決めになったとおり」とは、実に神学的な本筋を言い切った言葉である。良くも言えたものと、その言葉には、われわれには驚く。ラバンと、ベトエルのどちらが答えたかは、多分、名前が先の長男のラバンであろう。

 

聖書の伝える神学的な本筋を、異教社会の一族の長男が柔軟に答えることができたとは驚きである。その感化力はアブラハムの僕の、丁重な繰り返しの言葉の本筋の中にあった。ここに至った事情説明の形を取った伝道説教のようであった。神の御摂理の説明に終始一貫していたように思える。説明の中に隠されたものは、まさに神のご計画の説明そのものであり、それが本筋であり、見事に感化されたといわねばならない。


牧 会 通 信

2017-09-01 01:16:57 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その14)

◯わたしはすでにわたしらの下の右手で、渦が恐ろしい轟(とどろ)きを立ててゐるのを聞きつけたので、眼を下に向けて顔を突出した。

  すると火が見え哀哭(あいこく)が聞こえたので、下るのがますます恐ろしくなり、体ぢう震へて腿(もも)と脚(あし)をぎゆつと縮めた。

  いままでは眼で見なかつたのだが、いまや大きな悲惨が八方からせり上つてくるので、ぐるぐる回つて下りていくのがはつきり分つた。(前回ここまで)

◯かなり長く飛んでゐて、呼び戻す合図も鳥も見ずにゐた鷹が、なんてことだ、下りてくるのか!と鷹匠が叫ぶのもかまはず、

  すばやく飛び立つたところへ疲れて百の輪を描きながら下っていき、むつつりと蔑み顔で主人から遠くにとまるやうに、

  ヂェリオーネは切り立つた岸壁のすぐ下の底に、積荷のわたしらを下ろして、弦から放たれた矢のやうに消え去つた。(次ぎ、第18歌)

◯本日、8月27日(日)の

日本聖書協会の聖書本文は、ヨシュア1・1~9で、その主題は「恵みに強められる」である。その9節「わたし

は、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っ

てもあなたの神、主は共にいる。」という。ヨシュアが一人ではない。「神、主は共にいる」とは、これほど心強い

ものはない。神の力は一夜にして十八万五千人の敵軍勢を滅ばした。

 

◯写真は、先週は猛暑の一週間。猛烈な残暑。水の中に居りたい気持ち。牧師の書斎のランチュ

ウです。(25日撮影)。