創世記24章48節である。「わたしはひざまずいて主を伏し拝み、主人アブラハムの神、主をほめたたえました。主は、主人の子息のために、主人の一族のお嬢様を迎えることができるように、わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。」という。一方的な長い話はここまでです。その締めくくりが大事です。「主は、~わたしに旅路をまことをもって導いてくださいました。」と締めくくりました。
一千キロに及ぶ旅路のいろいろなことが思い出されたようである。しかしそのどの部分をとっても主なる神ご自身の導きであり続けたといっているのであり、それ以外のことは考えられないと、神ご自身との完璧な一体性を語っているのである。これは、わたしたちの人生の旅路のすべてについていえるのであり、詩人の言葉90編の最後の言葉を思い出す。彼は「生涯の日を正しく数えるように教えてください。」という。
49節である。「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」といった。長々と34節からこの48節までの事情説明が終わると。ここにアブラハムの僕から、その相手、リベカ一族への問いかけがはじめられた。「今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。」という具合である。
もし、相手が断るということも考えていたのである。しかし、誠実で、謙遜な問いかけにどのように応じるのか、全く相手方の問題であった。従ってその対応も用意していた。「それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」という問いになった。
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