朝礼拝2015年9月13日 (司会 長老 岩尾 幸子)
説 教「アブラハムは、わたしの日を見る」 牧師 南茂 昭夫
創世記 15章 8~ 21節
ヨハネによる福音書 8章 48~ 59節
賛美歌(交34) 170、353、464、27
(1)
まず、ヨハネの福音書8章48節です。「ユダヤ人たちが『あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、われわれがいうのも当然ではないか』といいかえすと、」といいます。先週の本文の47節であります。イエスがおっしゃいました。「神に属する者は神の言葉を聞く。」でありました。それを受けたユダヤ人は今お読みしました。「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」と言いだしたのでありました。
「サマリア人」とは、混血雑婚のゆえに、もともとユダヤ人でありながらユダヤ人に嫌われた民族でありました。このヨハネの福音書では、4章のサマリアの女とのイエスの会話が、そもそもの、始まりでありました。
(2)
イエスがサマリアの女と対等に話されるものですから、そのうわさが人づてにここのユダヤ人に伝わったのでしょうか、それで、イエスのことを「サマリア人で悪霊に取りつかれている」といい出したようであります。「悪霊に取りつかれている」という言い方は、宗教的敵対関係の、この時代の習慣的な言い方です。マタイ3・24節では、イエスが手の萎えた人をいやされた時の話ですが、その時ファリサイ派の人々が、「『悪霊のかしらベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言った。」といいます。つまりイエスは、悪霊に取りつかれているというのが、この時代の宗教的敵対者に対する通俗的考え方であるといっていいと思います。
そこで直ぐにイエスはお答えになります。49節です。「イエスはお答えになった。『わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。』~」と、実に明解であります。
(3)
さらに50節です。「~『わたしは自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」といっています。栄光を求めるのはイエス御自身ではなく、神ご自身であられますから、その栄光をも汚すなら、その行いを裁かれるのは神であります。つまり、主なる神がすべてを取り仕切っておられるのであって、それは、イエスの行うことではないというのでありました。51節にこういわれました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」といわれます。
ここでは第三者的な立場に神がおられるというのであります。そのお方が人の栄光を用意し、そのための判定をして、お決めになるとイエスがいっておられます。主イエスがご自分で決めて勝手な行動をとっているのでないのであります。イエスのお言葉は神からのもので、神の言葉であるから、その言葉に聞いてそれを守るならば、神の御旨に背く行いではないのであるから、神のその裁きを受けて「その人は決して死ぬことはない。」といわれました。
ここの誇り高いユダヤ人たちは、その「死ぬことはない。」という言葉を自分たちの都合のよいように早とちりして、怒りをあらわにしたのが52節です。わたしたち読者にはいささか滑稽に聞こえます。「ユダヤ人たちは言った。『あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことはない」と言う。』」と。そして彼らがなお、いうには53節です。『~わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。』」という。何とも誇り高いユダヤ人です。
わたしたちの世界ですが、この世のどこにおいても神の存在を認めねばなりません。キリスト教神学の基本的思考であります。最終的には、すべて神ご自身がお決めになるのであります。従って人の栄光を決めるとしてもそれを決めるのは神ご自身であります。それゆえ、あの使徒パウロが、人間には誇るべきものは何もないといったのは有名です。あのローマの信徒への手紙の3章27節です。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。」といいました。わたしたちの誇りはこの地上のどこにもないのであります。それでは本当の誇りがあるのか。あります。人の子イエスを十字架にけられて死んだあと復活することであります。わたしたちの誇りがあるとするなら、地上でなく、天上の復活の命の栄光であるといわねばなりません。それゆえ56節です。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」といいました。
(4)
旧約聖書は、創世記15章18節、「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、』」といわれている。アブラムに神が提供された契約の内容です。その契約はわれわれの社会生活の相互参与の契約行為と違うところが一つあります。それは時間的取り決めがないということです。人間生命には時間的限界があります。神にはそれがない。一人の人間の神の行為への参与うけることは、その確かさを信じて歩く信仰が人間に必要とします。
われらの救い主イエスの父なる神よ。子供たちも大人も、あなたがその最善をもってわたしたちの信仰の父アブラハムと契約を結んでおられます。この神の最善により頼み、あなたのお言葉に聞いて従う信仰者としてください。原発の再稼働を増やさないように。若者には最善の神を信じ従わせ、病人に癒し、高齢者に復活の命、神学生に学びを、主の御名によって。アーメン