日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2015-09-21 01:01:28 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(330)

4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―

  さて、二年間のアインシーデルン滞在中に、ライン河のかなた、世界史的な出来事が起こっていた。ルターの「九十五箇条の提題」という学生たちとの討論としての語り掛けと、それが吹き起こした世界的旋風であった。もっとも、ツゥイングリ 自身は、宗教改革への自分自身の取り組みはそのルターとはかかわりなしに独自のものであったことを繰り返して強調している。すなわち、「わたしはルターよりも先に「福音の真理を、聖書に導かれて発見していた」という。また言う。「ルターから学んだものは、ただ立ち上がって、すでに信じていたことを語りだす勇気であった。」この意味ではルターの働きは大きいといえるかも知れない。コロンブスの卵であった。しかし歴史神学的な意味では福音の先陣争いは無用であり、神の歴史的働きといわねば(ここまで前回)ならない。

どのような意味でも人間的功績を読み込んではならない。1516年秋からのアインシーデルン滞在は二年と数ヶ月という彼にとって比較的短い期間となった。1518年暮れも押し詰まってスイスの都市共和国を形成していたチューリヒに転任となる。時に34歳であった。ツヴィングリにとって更に新しい転機となった。このときから、彼は、宗教改革のツヴィングリといえばチューリヒ、チューリヒといえばツヴィングリといわれる関係になったのはこのときからであった。彼によってスイス改革派(つづく)


聖書研究

2015-09-21 00:53:37 | 大分中央ウィークリー

創世記21章26節である。「アビメレクは言った。『そんなことをした者がいたとは知りませんでした。あなたも告げなかったし、わたしも今日まで聞いていなかったのです。』」という。「そんなことをした者がいた」と。意外性というより責任を伴っての言葉のようである。なぜならこの地域ではトラブルといえば必ず家畜を養う水の問題であった。注意しておりながら起こる問題である。そのつど責任を逃がれられない。 

 アビメレクの誠実さを、その言葉が表現している。その責任はすべて彼自身が負うという覚悟の表明であった。知るに至る時間が今日に及んだが、これからの問題として対処しましょうという意思表明である。それはまた、農耕生活日本人の発想のように「今後二度と過ちがないようにしよう」というものでもない。ある意味ではお互いの動物保護への対応の慣習的な過ちを認め合っているということである。

 27節である。「アブラハムは、羊と牛の群れを連れて来て、アビメレクに贈り、二人は契約を結んだ。」という。両者の間には、井戸水の取得の問題で何か穏やかではない問題が発生しいたという意味を含んでいる。ここはその問題をも含めて将来に向って平和を築こうとしたのは被害者のアブラハムからであった。友好関係を造り出そうとする一つの決断が、ここのアブラハムの方からの契約締結の行為となったといえる。それにはそれ相応のアビメレクの誠意を読み取ったからに違いない。 

その結果「二人は契約を結んだ。」のであった。これは、人間的にいっても堅い同盟関係の契約といえる。アブメレクが26節の「知りませんでした」という発言は井戸の返還を伴ったのであろう。その誠意に応えるアブラハムであった


牧 会 通 信

2015-09-21 00:41:21 | 大分中央ウィークリー

 ダンテの「神曲 地獄」編 第11歌(カッコ内は筆子、その4)(原 光訳 2000年、沖積舎)

◯みんな呪われた霊たちでいつぱいだが、これからは見るだけですぐ分るやうに、聴くがよい、どのやうに、なぜそのものたちがギシギシ詰込まれてるか。

  天界で憎まれるあらゆる悪の目的は、傷害で、この非道な目的は、暴力か欺瞞で他人を苦しめる。

  だが欺瞞は人に特有の悪なので、一層神に嫌はれる、だから欺瞞者たちは下にゐて、一層激しい苦痛に攻め立てられてゐる。(ここまで前回)

◯第一の圏は暴力者ばかりを詰め込んでゐるが、暴力は三つの対象に加へられるから、三つの環に分けられてゐる。

神と、自身と、隣人に対して、暴加は加へられる、つまりそれらと、それらの持物に対して、やがてあからさまな供述で分るやうに。 

殺戮と痛ましい障害は隣人に対して行はれ、破壊と放火と強奪はその持物に対してなされる、(つづく)

 

◯2015年9月20日は、今年の第三十八主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「心に光を与える神」という主題である。聖書はマタイ6章1~8節、その8節、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものををご存じなのだ。」と。それは、一寸先が闇に覆われた心の中を知っておられるという意味である。ゆえに人は先ず、神の「光」を求めねばならない。

 

◯写真は、16日夕、八女伝道所の会員甲斐田一磨兄がお出でになった。久しぶりに夜の祈祷会を開いた。聖書読み、祈り、最近の中会の教会状況一般について話しあうことが出来た。(9月16日撮)


夕礼拝  2015年9月13日(日) 説 教 「御名の栄光」   牧師 南茂 昭夫   

2015-09-17 03:00:54 | 大分中央ウィークリー

夕礼拝  2015年9月13日(日)    

説 教 「御名の栄光」            牧師 南茂 昭夫

列王記上        8章   14~  21節   

使徒言行録       7章   44~  50節

賛美歌 218、 352、 474、 27

     (1)          

本日は、列王記上8章14~21節の本文によってキリスト教会の説教をいたします。その14節です。「王は振り向いて、イスラエルの全会衆を祝福した。イスラエルの全会衆は立っていた。」といいます。この書の名称は「列王記」であるが中国語訳聖書から来たものです。しかし原文はヘブライ語聖書では「諸王」であります。「王(ハ・メラク)ダビデは」から始まっている。その「王」(メラク)の言葉を複数にして「マラキーム」(諸王)というのがヘブライ語原文の名称であります。日本語の「列王記」としたのは名訳です。

名称は一つなのにヘブライ語原文の、いつの時か不明ですが、分量が多いので便宜上ⅠとⅡに、ほぼ二等分にして、日本語ではそれを「上」と「下」に分割されました。その内容はダビデ王の最後(前965年ころ)から始まって、バビロン捕囚(587年)までの歴史を歴代の王を並べて綴ったものです。

(2)

さて、本文に入ります。先に読みました14節です。そこでは、「イスラエルの全会衆は立っていた」とあります。これは継続的に立っていたという意味の言葉であり、厳粛な立式儀式を現わしています。また「全会衆」といいますが、この8章1節が参考になります。「ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに招集した」とあります。

わたしたちが今日、関心を持つような人数については一切触れていません。ただ歴代誌を書いた申命記歴史家はささげものの数をこの時、「ソロモン王は牛二万二千頭、羊十二万匹をささげた」(歴下7・5)といっています。また列王記のここでいわれている8章12節に「ソロモンはそのときこう言った。」といわれる「そのとき」とは、いつの時かというと、2節に、「エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに」とありますから、わたしたちがヨハネ福音書でもいわれている秋の仮庵の祭りの時でありました。ささげものの数からして、仮に10人に対して牛一頭または羊一匹としますと10倍の20万~30万の人数がエルサレムの集まっていたものと思われます。その話の内容は、12~13節でソロモンが神の箱に向かって「密雲の中にとどまる、と仰せになった。」と。主なる神に祈るようにして、そのように語っています。

(3)

13節、「荘厳な神殿を いつの世にもとどまっていただける聖所を わたしはあなたのために建てました。」と神殿建築が完成して、感謝を込めて祈るのでありました。それと平行するようにして14節です。今度は先ほどの、おそらく肉声で聞こえる範囲の会衆に向かってであろうと思われますが、大勢の会衆の方に向いて語りだしました。それは会衆への一つの説教となりました。「イスラエルの全会衆を祝福した」とありますから、神殿建築完成の祝福を兼ねて語る説教でありました。自分がこの神殿を建てるようになる、歴史的経緯を語るのであります。つまりすべて人間の業ではなく、主なる神がわたしを用いてなさる神の業であったことを縷々語るのでありました。

まず15~16節です。「王は言った。『イスラエルの神、主はたたえられますように。主は自ら語り、わが父ダビデに約束なさったことを御手をもって成し遂げ、こう仰せになった。「わが民イスラエルをエジプトから導き出した日からこのかた、わたしの名を置く家を建てるために、わたしはイスラエルにいかなる部族の町も選ばなかった。わたしはただダビデを選び、わが民イスラエルの上に立てた」と。』」とあります。

「わたしはイスラエルにいかなる部族の町も選ばなかった。」といいます。どの部族にも属していなかったエルサレムをダビデが、首都として選んだのでした。これは不思議な神の知恵でありました。それをソロモンがここで思い出させているわけです。創世記14章18節に出て来るのですが、アブラムを祝福したメルキゼデクが王として治めていたのが「サレム」といわれているエルサレムの町でありました。それゆえ政治的にどの部族をも平等にソロモンが治めることができたのでありました。「御名の栄光」はそのようなところにも現れていたということであります。

その関連で話を続けます。21節です。「またわたしは、そこに主との契約を納めた箱のために場所を設けた。~」といいます。この箱は神の御臨在を現わす箱であり、特別な権威があり、かつ力がありました。それゆえに、後にいろいろ問題を抱えながらもソロモンは神殿中心にして国を中央集権的に治めることができました。神殿建設の神の祝福の説教はこのようにして歴史的には限定された一時期に限られますが、立派な神の御名の栄光であります。

(4)

新約聖書は使徒言行録7章47~48節です。「神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いとき方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」と。これはソロモン自身も知っていました(列上8・27)。けれども誰も対応できません。今やその時が来ました。神殿は不要になり、キリストが礼拝を受けてくださるのであります(ヨハ2・21)。

救い主イエスの父なる神よ。大人も子供も、目に見える神殿を必要としません。どうか目に見えない十字架と復活のキリストを礼拝させてください。原発が再び稼働されました。当事者に原発の危険をより強く認識させてください。若者にはキリストの十字架の贖いの恵みを、病人には癒しを、高齢者には復活の命を、神学生には勉学の力を、主の御名よって、アーメン


2015年9月13日朝礼拝説教題「アブラハムは、わたしの日を見る」

2015-09-17 02:45:21 | 大分中央ウィークリー

朝礼拝2015年9月13日 (司会 長老 岩尾 幸子)

説 教「アブラハムは、わたしの日を見る」      牧師 南茂 昭夫

創世記        15章     8~  21節

ヨハネによる福音書   8章    48~  59節

賛美歌(交34) 170、353、464、27  

(1)                    

まず、ヨハネの福音書8章48節です。「ユダヤ人たちが『あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、われわれがいうのも当然ではないか』といいかえすと、」といいます。先週の本文の47節であります。イエスがおっしゃいました。「神に属する者は神の言葉を聞く。」でありました。それを受けたユダヤ人は今お読みしました。「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」と言いだしたのでありました。

「サマリア人」とは、混血雑婚のゆえに、もともとユダヤ人でありながらユダヤ人に嫌われた民族でありました。このヨハネの福音書では、4章のサマリアの女とのイエスの会話が、そもそもの、始まりでありました。

(2)

イエスがサマリアの女と対等に話されるものですから、そのうわさが人づてにここのユダヤ人に伝わったのでしょうか、それで、イエスのことを「サマリア人で悪霊に取りつかれている」といい出したようであります。「悪霊に取りつかれている」という言い方は、宗教的敵対関係の、この時代の習慣的な言い方です。マタイ3・24節では、イエスが手の萎えた人をいやされた時の話ですが、その時ファリサイ派の人々が、「『悪霊のかしらベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言った。」といいます。つまりイエスは、悪霊に取りつかれているというのが、この時代の宗教的敵対者に対する通俗的考え方であるといっていいと思います。

そこで直ぐにイエスはお答えになります。49節です。「イエスはお答えになった。『わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。』~」と、実に明解であります。

(3)

さらに50節です。「~『わたしは自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」といっています。栄光を求めるのはイエス御自身ではなく、神ご自身であられますから、その栄光をも汚すなら、その行いを裁かれるのは神であります。つまり、主なる神がすべてを取り仕切っておられるのであって、それは、イエスの行うことではないというのでありました。51節にこういわれました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」といわれます。

ここでは第三者的な立場に神がおられるというのであります。そのお方が人の栄光を用意し、そのための判定をして、お決めになるとイエスがいっておられます。主イエスがご自分で決めて勝手な行動をとっているのでないのであります。イエスのお言葉は神からのもので、神の言葉であるから、その言葉に聞いてそれを守るならば、神の御旨に背く行いではないのであるから、神のその裁きを受けて「その人は決して死ぬことはない。」といわれました。

ここの誇り高いユダヤ人たちは、その「死ぬことはない。」という言葉を自分たちの都合のよいように早とちりして、怒りをあらわにしたのが52節です。わたしたち読者にはいささか滑稽に聞こえます。「ユダヤ人たちは言った。『あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことはない」と言う。』」と。そして彼らがなお、いうには53節です。『~わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。』」という。何とも誇り高いユダヤ人です。

わたしたちの世界ですが、この世のどこにおいても神の存在を認めねばなりません。キリスト教神学の基本的思考であります。最終的には、すべて神ご自身がお決めになるのであります。従って人の栄光を決めるとしてもそれを決めるのは神ご自身であります。それゆえ、あの使徒パウロが、人間には誇るべきものは何もないといったのは有名です。あのローマの信徒への手紙の3章27節です。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。」といいました。わたしたちの誇りはこの地上のどこにもないのであります。それでは本当の誇りがあるのか。あります。人の子イエスを十字架にけられて死んだあと復活することであります。わたしたちの誇りがあるとするなら、地上でなく、天上の復活の命の栄光であるといわねばなりません。それゆえ56節です。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」といいました。

(4)

旧約聖書は、創世記15章18節、「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、』」といわれている。アブラムに神が提供された契約の内容です。その契約はわれわれの社会生活の相互参与の契約行為と違うところが一つあります。それは時間的取り決めがないということです。人間生命には時間的限界があります。神にはそれがない。一人の人間の神の行為への参与うけることは、その確かさを信じて歩く信仰が人間に必要とします。

われらの救い主イエスの父なる神よ。子供たちも大人も、あなたがその最善をもってわたしたちの信仰の父アブラハムと契約を結んでおられます。この神の最善により頼み、あなたのお言葉に聞いて従う信仰者としてください。原発の再稼働を増やさないように。若者には最善の神を信じ従わせ、病人に癒し、高齢者に復活の命、神学生に学びを、主の御名によって。アーメン