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標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

歌から遠ざかっていたが、再び聴くようになったきっかけの尾崎豊さんの曲の思い出。

2019-03-01 21:10:57 | 日記
昨夜のNHKニュースウォッチ9で「尾崎豊さん愛用のピアノ 富山市の文化施設に寄贈」という内容の報道があった。ピアノは尾崎さんが自宅の仕事部屋に持ち込んで捜索活動に取り組んでいたという。平成4年に亡くなった後は、尾崎さんのデビュー当時からのプロデューサーで富山県出身の須藤晃さんが管理してきたが、尾崎さんの楽曲や功績を知ってもらいたいと、遺族の了承をえて富山市民文化事業団に寄贈したとのこと。

尾崎さんは、このピアノで「卒業」の創作に取り組んでいた。そして、通常コンサートではギターを使っていたが、唯一ピアノを使って披露したのは「卒業」だったとのこと。

“若者のカリスマ”といわれた尾崎さんの面影は、富山市民芸術創造センターに行けば偲ぶことができる。

私が尾崎豊を知ったのは、医療機関に勤めていた平成の時代に入った直後だった。ある女性の患者さん(Aさん)との面談の中で、ある難病の患者さんから「尾崎豊って知っていますか。すごくいいのでぜひ聴いて欲しい」と言われた。
Aさんは通院などの移動時、電車の中でも、歩きながらでも尾崎豊の曲を聴いていると言う。

私は独身時代から、歌を聴くのは好きで、学生時代はNHKの“昼の歌謡曲”をカセットテープに録音しては、繰り返し聞いていた。
しかし、医療機関に勤務していた頃は、家庭では子育て、仕事も少数職種などで忙しく、歌を聴いてはいたのだが、ほとんど私の耳に残らなくなっていた。私の耳に残っている最後の歌手は山口百恵だった。

そして、Aさんのことをより理解するためにと、尾崎豊さんの歌を聴いてみようと思った。すでにカセットテープではなく、CDだった。

曲を聴き、思春期ころの自分と仲間たちを思い出した。
バイクではなかったけれど、家の大人が乗る自転車で、遠出をした。また、塞ノ神の祭りでは、夜陰に紛れ、別の祭り小屋を襲ったこともあった。でも、祭の行事の一つだったのだろう、本格的な争いにはならない。お互いにワクワク感を味わうだけのものだった。

当時は特定の異性と付き合うのには勇気がいる。男女が集団で、グループ交際というのも流行っていた。しかし、何か満足できずに切なさだけが残っていた思い出がある。

尾崎豊さんの曲は、私の時代とは違い、一層激しさがある。だが、それがその時代の“若さ”だと思った。
この後、末っ子も誕生し、子育てや仕事に慣れてきたのか、再びその時代の曲が耳に残るようになってきて、今に続く。DA PUMPの「U.S.A.」も。

尾崎豊さんを紹介してくれたAさんは、その後、ある患者団体の代表を務め、結婚、子育てを実践し、新たな資格も取得した。
今はAさんとは交流がないが、家庭と仕事に励んでいることだろう。
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