標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

(訂正版です)太宰府の歴史から知る、7世紀の中国・朝鮮半島・日本の関係。そして現在も・・・続く。

2019-01-02 23:27:09 | 日記
今日、NHK総合番組の『「ブラタモリ」×「鶴瓶の家族に乾杯」 新春スペシャル』を視聴した。福岡の大宰府だった。福岡はタモリの出身地である。そして、大宰府と言えば、太宰府天満宮だ。

はじめに本題ではないが知ったことだ。番組途中で説明されたが、最近では「だざいふ」の「だ」には二つの漢字が使い分けられているとのこと。「大」と「太」で、現代を現すときは「太」で、古代に関する表現には「大」を使うとのこと。
*初校では「大」と「太」の使い方が間違っていたので訂正しました。

さて、この番組は、太宰府天満宮が主題で、200万人もの初詣客を集める九州を代表する神社だ。なぜこれほど人気を集めるのかという秘密をタモリさんと鶴瓶さんが解き明かすものだった。

そして、番組の中で私が注目したのは、古代都市太宰府は太宰府政庁を中心に、城郭都市であったということだ。
1300年前に水城(みずき)という、土塁が1.2kmも続いている。土塁の両側には堀があり、台地の一番狭いくびれ部を塞ぐ形で造られている。また、最近になって発見されたというが、別の場所でも丘陵の間を塞ぐ複数の小規模の土塁遺構がある。水城と一連の構築物で、「小水城(しょうみずき)」と総称されるとのこと。

7世紀半ばは、中国では隋が滅び、唐の時代を迎えた。朝鮮半島では「高句麗」「新羅」「百済」の3国があり、それぞれの国が結託と対立が行われ、唐が朝鮮半島進出を狙っていた。663年に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍と戦い、倭国は敗北を喫した(白村江の戦い)。敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務だった。敗戦の翌年に水城を、その翌年に大野城が築かれた。険しい連山の地形と相まって大宰府の防衛となった。

以前本ブログでも触れたが、韓国の人と話をしたときに、秀吉の挑戦出兵以来の日本の朝鮮半島侵攻の罪を問われたことがあった。今日の番組で、秀吉以前にも朝鮮半島に出兵していたことを思い出した。

また、当時の朝鮮半島を中心に、国の構図を見てみると、今の構図に似ているのかも知れないと思った。
唐(中国)、高句麗・新羅の北側(北朝鮮)、新羅・百済(韓国)そして倭国(日本)だ。現代は、北朝鮮の後ろ盾には中国がいる。韓国の後ろ盾ではないだろうが、同盟国として、アメリカと日本がいる。

しかし、今やこれらの国の関係は複雑だ。北朝鮮の核開発については、国連での制裁が課せられている。朝鮮半島、日本を飛び越し、中国とアメリカ間では、武力ではないが貿易戦争が行われている。日本と韓国は、慰安婦や徴用工の案件、韓国軍によるレーダー照射問題と極めて関係は悪化している。北朝鮮とは出口の見えない拉致問題がある。トランプ大統領の自国優先主義により、韓国や日本との同盟関係の土台にほころびが生じている。日本では、北朝鮮の核ミサイル飛来の恐怖から、防衛費が増大している。

何時かどこかで、武力が行使されるリスクはゼロではないだろう。同盟や協定からの一方的な脱退は良くない。かつても、脱退から大戦に至っている。

こんな思いを半分抱きながら、今日の番組を見ていた。タモリさんと鶴瓶さんの漫才のような掛け合いや出会った人たちとの談笑に救われたが・・・? 

新年早々、不安な世相のことを思ってしまった。わが国だけではなく、世界のあらゆる国に問いかけたい。粘り強い話し合い・論議による懸案事項の対応をして欲しいものだ。
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