大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

役小角

2023-07-22 08:08:00 | 神仏について

「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは、修験道の開祖であり、7~8世紀に奈良を中心に活動していたとされる人物です。

「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われ、またほかに「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」などの呼び名があります。


優婆塞(うばそく)とは、サンスクリット「upāsaka(ウパーサカ)」の音写語で、「在家仏教信者」を意味します。また、「神変大菩薩」とは、「役行者一千百年御遠忌」を機に、光格天皇が、1799年役行者に贈った諡号(しごう🟰僧侶や貴人などの死後に、その生前の行いを尊んで朝廷から贈られる名)です。


役行者が、7~8世紀に実在したことは確かなようですが、正史と言われる史料は、平安初期に編纂された、『続日本紀(しょくにほんぎ)』だけで、役小角の記述はわずか数行しかありません。


『続日本紀』にみる役行者の記述

文武天皇3(699)524日、役君小角が伊豆島に流された。小角は葛城山に住み、呪術をよくすると、世間の評判であった。従五位下の韓国連廣足という者が、当初この小角を師と仰いでいたが、その能力をねたんで、(役小角が)人々に妖言を吐き惑わしていると朝廷に誹謗中傷した。そのため、(小角は)遠島の刑に処せられたのである。


世間の噂では、小角は巧みに鬼神を使役して、水を汲んだり薪を採らせ、もし(鬼神が)命令に背くようならば、たちまち呪術によって身動きがとれないようにしてしまう、などと言われている。


つまり

「鬼神を使役できると世間で噂されている、葛城山に住む行者の役君小角が、韓国連廣足の告発で島流しにあった」ということだけです。


しかし、私が愛読しています黒須さんが書かれた役小角の本は、とてもリアルに幼少期からの役小角が描かれます。


それは、不思議な力を駆使して、空や野山を駆けめぐり、鬼神を自在にあやつった奇想天で到底信じがたい伝説上の人物ではなく、当時の混沌とした時代を修養を誠の心でし続け人々をすくった人物だったと感じさせてくれます。


大化の改新あたりが幼少期で、皇統争いである壬申の乱あたりを生き抜いた感じです。偉大人物の流れでいうと、聖徳太子役小角空海という感じです。


この3者には共通するものがあるように思えます。聖徳太子は、秦氏から様々なことを学び月を信仰していたといいます。人物を生まれではなく能力により重用しようとします。秦氏とは祭祀をするユダヤの流れも重なり、星や月の信仰とも重なります。

また、役小角は、著書では、スサノオニギハヤヒの王国を再建させようとし、カモ族としての誇りを持って生きた御方でした。ニギハヤヒといえば、星や月信仰に関係のある御方だと考えます。

また、空海は唐から密教を持ち帰り、超人的な力を得、人々をすくいます。密教は、時代がおいついていないので、空海は仏教という枠により、また、仏像などを形にすることにより人々に見えない存在を理解させようとした気がします。しかし、実際は目に見えない壮大な空の世界観を曼荼羅からは伺うことができます。金剛界や胎蔵界を描いたもの、星を描いたもの、大地や空間を飛び越えて宇宙を想起させるものもあります。


坐をする役小角の姿と空海の修行と坐する姿が私には重なります。聖徳太子も坐をしていたのかもしれません。こちらは勝手な推測です。

正史ではないですが、平安初期に、『続日本紀』にやや遅れて成立したとされる薬師寺の僧景戒(きょうかい)によって編纂された日本最古の説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』の上巻に、役行者にまつわる説話が収録されているようです。


「孔雀明王の呪法を修め、不思議な力を得て、現世で仙人となって天に飛んだ話 第二十八」
役優婆塞は、賀茂役公、今の高賀茂朝臣の出身である。大和国葛木の上郡茅原村の人であった。生まれつき博学でぬきんでており、仏法僧の三宝を深く信じていた。心に願っていたのは、五色の雲に乗って、果てしない空を飛び、仙人の宮殿にいる客人と一緒になって、永遠の楽園や、華の満ちた苑起居してその「気」を得、身心生命を養う事を心掛けていた。

(若い頃からそのようにねがっていたので、)四十歳を過ぎるころには、洞窟で生活するようになり、葛で作った着物を羽織り、松の実を食べ、清らかな湧き水で沐浴するなどして、俗世間の垢を落とし、孔雀明王の呪法を修行して、不思議な力を得たのである。鬼神を使役することは自由自在であった。

つまり、役行者は、道教的、密教的な苦修練行によって不思議な修験の術を得たということがわかります。ここで注目したいのは、道教と仏教を混在させていることです。


空海により「純密(じゅんみつ)」が、唐からもたらされる以前に、超自然的能力の獲得を目的とする「雑密(ぞうみつ)」を役行者は行っていたわけです。


「修験道」が成立していない時代に、密教のような側面を確立しています。黒須さんの著書では、役小角は当時ニギハヤヒの再来だと言われていたことが描かれ、坐を重んじる姿や、様々な咒を唱える様子も描かれていました。


沼島八幡宮 牧野富太郎とシーボルト

2023-07-21 05:37:00 | 神社仏閣

淡路島のフェリー乗り場の近くに沼島八幡宮がありました。





こちらの看板に、植物学者の牧野富太郎と、シーボルトの名前がありました。




キリスト教の影響をおそれ、日本が江戸時代に鎖国をして次々と欧州との国交を断絶した中、オランダは出島で交易が認められた稀有な国です。


幕末、鳴滝塾を作って医学の発展に貢献し、高野長英などに医学を教えたシーボルトの出身大学であるライデン大学は、オランダ最古の大学です。シーボルトとの縁から、非常にその後も日本と縁が深く、日本語学科があり、オランダの学生は日本語を2年くらい勉強したら流暢に喋るようです。



ライデン大学


シーボルトは医学だけでなく植物をこよなく愛し、シーボルトが持ち帰った日本の植物が今でも残っているほか、ライデン大学には日本庭園も設けられているようです。


日本博物館 シーボルトハウス
シーボルトが持ち帰った日本のものが展示されています。


シーボルトは日本で多くの植物を収集し、ヨーロッパに持ち帰って広めることで西洋の植物学に貢献します。


植物学の貢献でいえば、高知出身の牧野富太郎博士もしかりです。

朝ドラ、らんまんは高知出身の植物学者、牧野富太郎の生涯が描かれます。神木隆之介さんの名演技もあってか、大変人気のようですね。



この、牧野富太郎とシーボルトは、同じ時代に、植物をこよなく愛した学者です。シーボルトは日本で多くの植物を収集しヨーロッパに持ち帰って広めました。


牧野富太郎博士は日本の植物に焦点を合わせ、植物学の研究を行いました。


しかし、牧野富太郎博士はシーボルトに烈火の如く怒りを表した話しが残っているようです。

それは、紫陽花の名付けに関する話です。

シーボルトは、日本に滞在した6年の間に、出島の遊女で日本妻「お滝さん」こと楠本滝と恋に落ちます。帰国後、日本での研究結果をまとめた『日本植物誌』を彼は発表しますが、その中で、愛するお滝さんの名を用いて、紫陽花の学名を「Hydrangea otaksa Siebold et Zuccarini」と名付けたようです。

紫陽花の学名「オタクサ」の由来となった楠本滝との間に産まれた娘イネは、父のあとを継ぐかのように後に医師となり、主に産科女医として活躍しています。この当時の女性では珍しいですね。


楠本イネ 美しい方ですね。

紫陽花に、離れ離れになっても愛する女性を思い名付けるシーボルト。国外追放となっても日本の妻と娘のことを愛していたのでしょうね。


これに対して、日本の植物学の父、牧野富太郎は、個人的な恋情を神聖な植物の名に冠したことが許せなかったようです。


植物は神同然。一個人の私情を挟むな!ということでしょうか。困窮を極めながらも、植物研究を貫いた牧野富太郎博士の植物への真っ直ぐな純粋さも伝わります。


当時は犬猿の仲なのかもですが、こうして沼島の看板に西洋と東洋の有名な植物学者の名前がそろって記されているのも、

植物を愛する心は共に神社の森で溶け合っているのかもですね。日本は和の国。



宮の裏手の森。こちらの森の植物が貴重なのですね。☟





宮の裏手の森

参道脇には、なんと、紫陽花が。


沼島の港を一望します。




沼島から土生にフェリーでもどります。土生港の海辺にて。








上立神岩 in 沼島

2023-07-20 06:24:00 | 神社仏閣

沼島の「上立神岩(かみたてがみいわ)」は、高さ約30mを誇る国生み神話の象徴の巨岩です。





その形から、イザナギ様とイザナミ様が国生みの際に使った「天の沼矛」、あるいはイザナギとイザナミが夫婦の契りを交わした際に周囲を回った岩「天の御柱」とも語り継がれているようです。 


自凝神社を参拝後、歩いて上立神岩に行きました。25分くらい歩いたと思います。

どんより曇りでしたが、暑すぎなくて、歩きには良かったです。


到着。


先ずは下ります。





和漢三才図会(日本の百科事典)では、龍宮城の表門ともいわれているとあります。







曇りがまた素敵ではないですか?

こおろこおろしてそうな感じです。


よくみると🩶のマーク。


入院中の母から、早朝、電話があり、気をつけてね、と言われたばかり。海🌊の近くに降りるのは控えました。

朝、坐のあと急に電話があり、ビデオ電話しました。笑顔で電話を切りました。

母も早く良くなりますように。

みんな良くなれ。


上立神岩を下って見たあとは、展望台に上ります。




すると、ご夫婦でこられている方がおられ、話しました。愛知出身の方で、神社詣りをされている方でした。六甲山に前日行かれていたみたいです。


双子が似すぎてビックリされていました。


神様とまだ、ひとつなっていなくて、と仰っていました。内なる神を求めている感じの御方でした。


イザナギ様、イザナミ様が天の沼矛をかきまぜて始めの国産みをした地。自凝(おのころ)のある沼島まで来るには、自ら神を求める気持ちがある方が多いのかもですね。


心地よい気を放つ優しそうなご夫婦でした。


帰り道、ふと、沼島生誕の歴史の看板をみました。スケールがすごいです。


宇宙創生を思わせる看板でした。






凄いですね。天地創造。大地、国が生まれ、整った後に人の命が誕生する。まさに奇跡の連続です。

ゆっくり流れる島時間。
道端に咲く花、さりげないです。



大地に種が根をはり、野に花が咲くまでには、何百億年かかったんでしょうね。
これも、自然の造形物。

神様の息吹のかかった作品だと思いました。




おのころ神社 in 沼島

2023-07-19 06:04:00 | 神社仏閣

次の日は淡路島からフェリーで沼島にあるおのころ神社(自凝神社)に早朝から向かいます。


土生港に車で向かう道中、道の真ん中に🐢がいました。

道の真ん中で、いってらっしゃいと言われた気がしました。行ってきますね😉


土生港に到着しました。土生の名前も、なかなかすごいなぁ、日本は言霊の国だなぁ、沼は、水が最初に湧き出たところに生まれますし、水のあるところは、太古から文明が栄えます。

沼島↔️土生の往復は、水↔️土の生成を感じます。

土生から沼島へフェリーで向かいます。






沼島に到着しました。フェリーの中から青鷺を発見しました。

フェリーを降りて見にいくと、青鷺の飛翔です。美しいです。





先ずは地図確認。




マップを手に入れます。が、、
方向音痴の私たちは歩き始めると訳がわからなくなり、地元の方に次々と話しかけました。
セキレイさん、合ってますか?なんてね。
国産みの島ゆえに、鶺鴒(セキレイ?)、いやいや、そんなうまく出来てたらすごい。
つばめかな?いずれにせよ可愛いかったです。

無事におのころ島神社入り口に歩いて到着しました。


地元の方は、着くまでに、おのころさんはなぁあっちの山やで、と指さして教えてくれました。「おのころさん」と親しみを持って大切にされているのがわかります。







入り口から、凄い山上かなぁなんて思っていたらそんなことはありませんでした。きちんと階段もあり、とちゅう瑞玉をお祀りしていました。



手を合わせます。




階段はまっすぐです。着きました。登った先の拝殿にて妹が手を合わせます。忠君とあります。「忠」とは、道の教えによると、自己の誠心を尽くすことです。




妹と「忠君」の石碑が自凝神社拝殿前に。

すごく良いアングルの写真だなぁと今気づきました❣️


この神社では、妹とふたりとても気持ち良い風を感じました。素晴らしかったです。





裏手にいくと、イザナミ様、イザナギ様の銅像がありました。こおろこおろしてますね。国産み感謝。




帰りに動くものを発見

🦀です。立派な🦀が3匹いました。



蟹の持つあのハサミは、邪気を取り除いてくれるという意味があるようですね。


チョッキンチョッキンチョッキン無ぁと、色んな邪があの気持ち良い風に祓われたのかも。


とても有り難かったです。


ありがとうございました😊。



伊弉諾神宮 in 淡路島

2023-07-18 05:18:00 | 神社仏閣

おのころ島神社の次は、伊弉諾神宮に参拝しました。



亀と鯉


おのころ島神社のあとでしたから、イザナギ様とイザナミ様は国産みに成功したあとの話を思いました。



三貴子誕生逸話は、実は、イザナミ様が火の神様を産んだ後火傷をして亡くなった話から始まります。イザナミ様と火の神様は、熊野にあります花の窟神社に共に祀られていましす。妹と数年前参拝しましたが、その際に、神社というより窟はまるで壮大なお墓のような雰囲気さえ感じ、手を合わせていたら、上からパラパラと小石か何かが落ちてきたのを今でも覚えています。


花の窟神社

イザナミ様が亡くなったことに耐えられず、イザナギ様は黄泉国に行きますが、そこから話がはじまります。愛別離苦のストーリーだと私は思いました。


愛していてもいつかは別れる、離れるのは苦しみが伴う。それは少なからず生きている限り経験してしまいます。

神話では、イザナミ様が黄泉国で変わり果てた姿をみて、黄泉国から帰ったイザナギ様は

「なんときたない国へ行ってしまったのだろう。」と言って、竺紫の橘の小門の阿波伎原に行って、体を清めることにします。

この時にイザナキ神が脱いだ衣服などから
神々が生まれました。イザナキ神が体を洗い清め時に禍の神々が生まれ、また禍を直そうとして神々が生まれます。

水に潜ると、また港の神々が生まれ、航海を司る海の神々が生まれました。そして最後に顔を洗うと、

左目からアマテラス大神が、
右目からツクヨミ神が、
鼻からはスサノオ神が生まれました。

三貴神の誕生です。

イザナギ様は三貴子の誕生を大変喜んで、

「わたしは、子を生み続けたけれど、
 ついに三柱の貴き子を得た。」と言い、
アマテラス大神に高天原の統治を、
ツクヨミ神に夜の統治を、
スサノオ神に海原の統治を任せました。

と話しが続きます。


ウィキペディアでは、

天照大御神 - イザナキの左目から生まれたとされる女神(本来は男神だったとする説もある)。太陽神

月読命 - イザナキの右目から生まれたとされる神(性別は記載していないが、男神とされることが多い)。夜を統べる月神

須佐之男命 - イザナキの鼻から生まれたとされる男神。海原の神

また、

『日本書紀』本文は伊弉諾尊と伊弉冉尊が共に「いかにぞ天下の主者を生まざらむ」と言って最後に生んだ四柱の神々のうち三柱で、月神の後、素戔嗚尊の前に蛭児(ヒルコ)も生んだとあります。ヒルコ神は、エビス神、日の出の神様です。


生きているうちに愛別離苦を経験したイザナギ様。しかし、黄泉国に行ってしまったイザナミ様への「離苦」から「さっぱ離」断ち切る心境へと変化します。


執着を祓い、そこから、また次々とイザナギ様は神々を創造します。執着はエネルギーが低下するのかもです。執着は創造を阻止してしまうのかも。


お釈迦様も愛別離苦を説かれます。

裏切られたり、死別したり、人の心は出会う人に執着が強ければ強いほど、別れを辛く苦しいと感じます。黄泉の国に追っていきたいほどに。時間薬が必要だったり、聖なる教えにより救われることもあります。


伊弉諾神宮は、神宮というだけあり、ツアーバスが駐車場には沢山とまっていました。妹は2回目ということで、妹はガイドさんで私を連れて行ってくれました。感謝。