大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

おのころ島神社 国産み、生命の誕生の神秘

2023-07-17 06:50:00 | 神社仏閣

淡路島 おのころ島神社⛩️に妹と行きました。高知に帰り、その足で妹とドライブ旅行が始まりました。とても大きな赤い鳥居がありました。

淡路島といえばイザナギ様イザナミ様の国産み神話です。最初に入ってすぐのところに、鶺鴒石がありました。この鶺鴒(セキレイ)は鳥の名前です。




鶺鴒石には、赤と白の縄があり、カップルが紐を引っ張って手を繋ぐと良いとか云々書かれていました。




セキレイは白と黒のかわいい小鳥ですが、激しい性格を持っているようで、ルールをきちんと守るみたいですね。

このセキレイ、「日本書紀」にでてきます。「国産み神話」の男女二柱の神イザナギ様とイザナミ様が天から降りてきて日本の国を産みだすやり方がわからないとき教えたようです。

セキレイがニ神の前にやってきて尾を上下に振ります。その動きを見てふたりは夫婦和合の方法を知り、次々と子ども(=国や神)を産んだようですね。

結婚披露宴会場の壁にセキレイが描かれたり婚礼の調度に鶺鴒台があるのは、それに由来するみたいです。



一方、「古事記」では国産みは夫婦イザナギ様とイザナミ様が出逢う場面では、イザナミ様が先に言葉を発したら国生みに失敗しイザナギ様が先に言葉を発したら国生みに成功します。

このことが暗示しているのは、日本語を生むことに関係があるのではと指摘されている方がいました。この洞察☟当たり🎯だと思いました。


「子どもの音を生むのは、父韻が先で母音が後がいいということです。それは日本語の仮名(かな:神名)のことで、

例えばa(母音)が先でk(父韻の一部)が後だと仮名は生まれませんがkが先でaが後だとka(か)という仮名が生まれることから、イザナギ様から言葉を発しないといけないというのは仮名が生まれる過程を表しており日本語は子音だけでは存在できない母音優勢の言語でありそれは日本人の思考にも影響しているように思います。」


はじめに言葉ありき。言霊の国、日本、を表している。


そしてイザナギ様が柱を右回りしてイザナミ様が柱を左回りすることにも、素晴らしい洞察をされていましたので、その内容をふまえ書いてみます。☟


八卦から右回り左回りの意味を見いだしていました。「乾」が父(陽)ですからイザナギ様、「坤」は母(陰)ですからイザナミ様です。イザナギ様とイザナミ様は悦びという「兌」を中心にして向かい合っています。


リッシンベンに「兌」で悦ぶ。立身、立真、立心、律心、からは身魂をきちんとしてまじ合わせる感じがします。男女和合、陰陽和合から子供が胎児として出来るには絶妙な陰陽の☯️バランスが小宇宙で自然に、神がかってなされている、そういう命の神秘を思います。



気を整えて先天とまじ合わせる坐でも、「さい兌」といって、任脈と督脈を合わすポイントが口にあります。


イザナギ様が左回りでイザナミ様が右回りだけだと足りなくて、イザナギ様が右回りでイザナミ様が左回りだと共に陰陽の振り子のように、時間のある空間に物が生み出され、大きな輪(大きな和🟰やまと)を作り悦ぶ。




「兌」の方位は「西」で、干支で言うと「酉」(とり)で「十理」。十(和)は神を表します。

イザナギ様とイザナミ様は神の原理を中心にして向かい合い、神の原理とひとつになったことを表しているのですね。人も魂魄をきちんと操縦してこそです。




国生みの背景は仮名(神名)が生まれる背景であり、また、「大和(やまと)の国は言霊の幸(さき)はう国」(万葉集より)であるのもむべなるかな(もっともなことだなあ)。


乾坤兌、三つの和、三つの輪が一つになり、命の輝き、一点の光を、胸の中に持って人は生を受ける。


生命の神秘を思います。生まれて死ぬまでに、とてつもない苦悩を経験したり、批判に晒されたり、ニュースでは、悲しい報道に胸が痛くなったりします。


命は、物凄い神秘の結晶であり、イザナミ様イザナギ様のお話からも、誰かによって、また自分によっても、決して傷つけててはならない光だと、国産みの神話から感じました。✨✨✨

神社参拝から、沢山の気づきをいただきました。ありがとうございました⛩️。



浩然之気

2023-07-14 05:06:00 | ひとりごと

浩然之気(こうぜんのき)は孟子の御言葉です。天地に満ちている、大きくて強い正大の気。公明正大でまったく恥じることのない精神。そっから転じて、なにごとにも屈しない道徳的な勇気。

「浩然」は、水がゆったりと流れる様子などと説明されています。


この御言葉ですが、日本では吉田松蔭が述べていたようです。松下村塾を開き、幕末に多くの武士に多大な影響を与えた吉田松陰。最後は投獄され非業の死を遂げます。

揺るぎない信念を持つものの、時代の荒波に飲み込まれることは、歴史にはあるのだと思いました。




吉田松蔭


浩然の気について、吉田松蔭の御言葉は下記です。


【訳】

至大至剛、直を以て養ひて害することなければ、則ち天地の聞に塞がる(この上もなく大きく、この上もなく強く、しかも、正しいもの。立派に育てれば、天地の聞に充満する程になる。それが浩然の気であるという) 孟子本文


この一節を最も詳細に読まねばならない。


「至大」とは、浩然の気の形、ありさまである。孟子が「恩を推せば、以て四海を保んずるに足る(人としての情け心を押し広めてさえゆけば、広い天下でも治めていくに十分であることいっているのも、つまり浩然の気のことである。

この気が覆う広さは、天下がいかに広くても、人々の数がどれほど多くても、とうてい及ばないのである。何と大きいことではないか。

しかしながら、常日頃、我が身にこの気を養わないでいれば、たった一人の人間に対しても恥じ入ってたじろぎ、これを受け入れることができないのである。

ましてや十数人に対しては、いうまでもない。また、千万人に対しては、なおさらのことである。

確かに、この気を養って、大きくすれば、際限もなく大きくすることができる。ところが反対に、小さくさせてしまうと、際限もなく小さくなってしまう。


「浩然の気」というものは、この気を最も大きくしたものである。「至剛」とは、浩然の気の模様、ありさまである。「富貴も淫する能はず、貧賎も移す能はず、威武も屈する能はず(財貨が多く位が高くても、その心を堕落させることができず、逆に、貧乏で身分が低くても、その心を変えさせることができない。威光や武力をもってしてもおびえさせることができないこという、それが、この気のことである。


以上。


こういう気を自分の中に充満させる。そういう気をもった人が集まれば、それは弥勒の世かもですね。


気は、つくづく大切だと思います。

私の愛読書のひとつ、生きがいの創造の著者、飯田史彦先生は、吉田松蔭の生まれ変わりと言われています。

昔、私は一度だけ飯田史彦先生の講演に行った事があります。

先生が臨死体験中に神霊から尋ねられた御言葉、つまり、人が死んだ後に尋ねられる質問、


充分学んだか

充分愛したか

充分使命を果たしたか


シンプルだけど聞かれるんだと思いました。この深淵な問いに、真っ直ぐに、ハイと答えられる人になりたいと思いました。


飯田史彦先生の名著は、生きがいの創造シリーズですが、戦時中、大本教が弾圧を受けた際、被害を受けた出口日出麿さんも、同じく生きがいの創造など、生きがいシリーズを出していました。

弾圧により気の病となりました。病の前に書かれた著書は、それは慈愛に満ちていました。時代の波は、繰り返し、聖人を打ちのめすのだと思いました。

生きがいは創造していくもの、そして、創造主は、自然がそうであるように、浩然の気がみなぎると無限に♾️可能性は広がる気もしました。

良い気を持つ、これは、生きがいを創造する人ひとりひとりが、言葉、行動、思考を正しく選択することにより出来るのかもしれないなとも思っています。



塩の話し ②

2023-07-11 05:39:00 | 神話・物語・本から
前回の続きです。

日本神話で、塩といえば、

イザナギ様、イザナミ様の二神が天上にある「天の浮橋」にお立ちになり、「天の沼矛」で海原をかき回すと、その矛より滴る潮(塩)がおのずと凝り固まって島となる話があります。この島が「自凝島(おのころじま)」です。


今日は、おのころ島に注目します。なぜなら、おのころ神社に参拝予定だからです。

「自ら凝り固まった島」ということで「自凝島」。

おのころ神社は、淡路島の中にあって、イザナギ・イザナミの二神をお祀りしており、地元ではこの山全体を「おのころさん」と呼び御神体として大切にしているようです。山上に向かって階段が天に届くかのようにまっすぐに伸びているようです。


ところで、前回の聖書の地の塩(The salt of the earth.)の話、「山上の垂訓」として知られるイエスキリストの言葉は下記でした。

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか〈略〉」


おのころ島は山全体が御神体ですが、おのころさんの山上に向かって階段が天に届くかのようにあるようで、山上に神社があり、イザナギ、イザナミ様、ククリヒメ様がお祀りされているようです。

天の(高い所から)コオロコオロして下垂れた塩により、固まったのが最初の地。

🫧泡が塩に固まり地に鳴る島🏝️淡路島。鳴門の渦潮🌀🌀が近くにあります。



言葉遊びですが

国産み神話は、滴る(下垂る)塩が地に。イエス様の山上の垂訓は、地の塩。

なんだか似てませんか!?


「おのころ」とは、「自凝」とかきます。

神話は国産みの話で壮大な何かを感じますけど、高い所から右回り、左回りにコオロコオロ、🌀🌀。自然が凝るにも、人が凝るにも、右回り左回りあったりするかもですね。気も身体で回ります。男性と女性は気の回り方が逆みたいです。

一即多、多即一。差別なく、偏らず、均等にコオロコオロです。🌀🌀🌀


ちなみに、宮城県の塩竈神社の社伝では、塩土老翁が製塩法を教えたとされています。



塩土老翁は、潮の流れを司る神ともいわれ、まさに、塩の神です。

人間の体の中で塩は「細胞外液」に多く含まれていて、この液に細胞は囲まれています。この液体は大切で、全身の細胞に酸素や栄養分を運んだり()、また細胞でできた二酸化炭素や老廃物を肺や腎臓に運び、排出します。(


つまり、塩を含んだ体液は、の働きを身体でせっせとしている訳です。そして、この細胞外液の濃度を維持し、細胞が正常に働くのを助けています。


塩NACLはナトリウムイオンNAと塩化物イオンイオンCLという風に、イオンレベルでの働きにわかれせっせと働いてくれます。イザナミ様、イザナギ様も陰陽➕➖の働きで国を産んだように、身体も様々な所で陰陽のバランス☯️を整えて、コオロコオロ、良く鳴る🍥ように、身体を保ってくれているのでしょうね。


体の中の塩分は、腎臓の働き(都海神の管轄)により一定に保たれており、通常の食事や運動をしている場合には足りなくなることはないみたいですが、

下痢や激しい発汗などで塩分が急激に失われると、体はナトリウムが体外に排出されないように制限をし、体内の塩分量と水分量を調整するようです。 

すると、体内の水分を少ない状態でキープしようとし、その結果、血液量も低下してしまい、脱水症状となるようですね。


塩分は取りすぎも良くないけど、取らないのも良くない、丁度➕➖0️⃣の中間↔️が良い塩梅になのですね。

今年も梅を漬けました!塩分控えめにしました。良い塩梅に出来ますように。



梅って、美味ぇ。😋


【画像はお借りしています】


塩の話し ①

2023-07-09 05:22:00 | ひとりごと

暑い季節、冷房を調節して熱中症にならないように水分と少しの塩分をしっかりととりたいですね。


塩は昔は貴重で、「しおらしい」なんかは、控え目で、慎み深く、可愛らしいことですが、これは、封建時代、塩が手に入りにくかった百姓の女たちが、塩欲しさに出陣する武士が持つ塩包みに目をつけて言い寄ったことから始まった言葉のようです。


女性の態度は恥ずかしそうで、塩欲しさの素人の言い寄りとすぐに見破ることができたことから、「しおらしい」となり、"この塩が欲しいんだなと察しがついていた"が転じた言葉みたいですね。


また、「敵に塩を送る」という話に登場する塩は、塩止めによって苦しんでいた武田信玄の領地の民に、上杉謙信が送った塩のことです。

たとえ敵対する相手だったとしても、民が苦しむことを見過ごせず、敵の窮地を救うこととして戦国美談が後世に語り継がれ、ことわざとなりました。


また、天塩にかけるとは、自ら世話をしていつくしみ育てることで、漬物、おむすび🍙をイメージしてもわかりますが、昔から手に塩をつけて丹念にものを作る行為には、愛情がこめられていることです。


このように、とても貴重だった塩🧂は、言葉の中でもなかなか味わい深いです。また、塩は人間の身体にとって必要不可欠なものです。人間の体内では塩は作り出せなくて、必ず食べ物から摂取する必要があります。


生き物は海で誕生し、海から陸の生き物に進化を遂げる際に、体の中に海水と同じ成分を作ったといわれています。それが体液や血液などの液体であり、太古の海水の成分と非常に似ているようです。


また、胎児を守る羊水も、海水の成分とほぼ同じもので、生き物は塩と共にあり、塩がなければ生存することが出来ません。 


体の中の塩分は、腎臓の働きにより一定に保たれており、腎臓は、身体の神様都海神(都會神)が頑張ってくださっています。水の要素と一番深く繋がり、また、塩とも繋がりが深いイメージがあります。


通常では腎臓で保たれる塩は足りなくなることはありませんが、下痢や激しい発汗などで急激に失われると、体の中の塩分が足りなくなり、脱水症状が現れます。


都海神がヘルプミー!!と叫んでしまうことになります。 


というわけで、水分と、適度の塩をこの暑い時期には摂り、健康にいたいですね。


さて、前置きはこれくらいにして、


聖書には、地の塩(The salt of the earth.)の話があるようです。

地の塩とは、社会のために尽くして、模範となる人のたとえのようですが、この由来は、新約聖書―マタイ伝・五の一節、「山上の垂訓」として知られるイエスキリストの言葉からのようです。


「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか〈略〉人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」


私たちが地の塩であるという視点は、天地をつなぐ人は、天地には欠かせなくて、きちんと味わい深く、しかも、天地という素材を活かすお役目がある、、というような意味合いに深読みしてみました❣️


米🌾は、神様に関係深いイメージがあります。私たちが、白米のおむすびの塩の役目だとすると、しょっぱすぎず、でも、ないと味気ない、そんなさりげない主張しない感じのヒトって、良いなと思いませんか?


私たちの身体にも、神様からお預かりしている器という視点をもち、食事でも塩分は取りすぎず、さりげない程度の塩を摂取して大切に使いたいです。






しそ料理の起源と華佗

2023-07-05 04:53:00 | 神仏について

暑い季節の到来です。私には、苦手な季節。食欲の低下はさることながら、火の前で料理を作るのも萎えてしまう。

そんなとき、ふと、これは良い!と料理の動画に出てきたのが紫蘇(しそ)料理。



簡単かつ、白いご飯もすすみそう。

この紫蘇は、太古中国の名医、華佗に由来します。その紹介がこちら☟



華佗は医術や薬の処方に詳しく、麻酔を最初に発明したとされており、「麻沸散」と呼ばれる麻酔薬使って腹部切開手術を行なったといわれています。民衆から「神医」と呼ばれていました。


以前、李氏朝鮮時代のホジュンについて書きました。ホジュンは16世紀から17世紀のことで、李氏朝鮮王朝の時代、開腹手術をしたり、既成の概念に囚われず、また、権力にも屈することなく、医学の道をまっとうしました。あまりに、感動し私は2度も何十話もある韓ドラを見てしまいました。


華佗の逸話とホジュンの逸話が重なります。華佗は西暦2世紀の人物、三国志の曹操に仕えた逸話からも、ホジュンよりもずっと以前に生き、その時代において、薬草を煎じ、開腹手術などを行い、人々を病の苦難から救った神医だったといえます。


三国志の曹操に縁があり、三国志のアニメもでもでてきます。






著書の中に出てきます名医、華佗については、日本道院のホームページに詳細が書かれておりました。そちらからも一部抜粋いたします。☟


 華祖は三国志に登場する華佗のことです。道院では救済事業を司る慈院にお祀りしています。扶乩(フーチ)において方壇(※)に降りられ、一人一人に合せた漢方の処方や治療法を教示されていました。


方壇とは、病気や怪我に対する治療法を神仙に伺う扶乩のことのようです。


道院の日本人の女性が、持病について華祖より漢方の処方を賜り、漢方を服用し治癒したことが伝聞で伝わっています。


性を養う術(養生術)に通暁し、漢方に精通し、用いる薬は数種のみで、これを処方し、鍼灸を数所に施すだけで、華佗は患者を治したようです。


鍼灸が通じない病が重い者には、切開し、腹背を破し、腸胃を断じ、疾を除いて傷を縫うことまで行います。


また、すぐに愈(癒)する神膏を伝えた。済南母院の方壇に降臨し、扶乩にて『青嚢秘錄』※『金匱丹方』を伝えます。


アニメではこんな感じ☟



『青嚢秘錄』については、混乱した世情の中で著書は華佗の妻によって燃やされて幻の著とされています。



しかし、時間の概念のない彼方の世界から、厳格なるフーチにて、華佗は悠久の時を経て登壇され、幻の著書『青嚢秘錄』を、再度伝えたようです。


日本道院にて『青嚢秘錄』は現在閲覧できます。私が漢方医なら、手にして読んでみたいですね。全くわからないかもですが、しかし、神医の著をやはり見てみたいです。


それは、東洋医学の医論を、扶乩で華祖が再現したものであり、古い漢文のようです。

日本語訳はまだありませんが、古い漢文かつ、東洋医学に精通している人など興味がある方は、道院にて閲覧できるようですね。日本語訳もできる方がいると、太古の自然に根差した医学の煌めき✨が現代に蘇るようにも思います。



道院ホームページより

【画像は、お借りしました。】