大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

出雲は出芽 はコトムケ和す国

2023-02-01 06:46:00 | 神話・物語・本から

昨日の続きです。


出雲王国は、BC660年頃成立したとありました。記紀神話でいう神武天皇即位もそのころとされていますが、実際はヤマト政権初代大王神武天皇の即位をこちらに合わせて、古くしたと本では述べていました。


出雲王国は、武力による統一王国ではなく、同じ宗教により結ばれた王国であり

王家は、クナト王の直系の向家(むかいけ)で、各地の豪族を「言向けた」(言葉により説得した)ことから、古くはムケ家と言われたようです。


「出雲国造家文書」のには、向家について次のように書かれているようです。


向(ムケ)は平(コトムケ)ナリ、二神ヨリ授ケラレタ広矛ヲ所持テ、国ヲ平シ時云々、向上官職ハ右の平ナリ、


「平」をコトムケと振り仮名がされており、なるほどなぁと思いました。

コトムケワス、は「言向け+和す」ことであり、つまり、「平+和」のことです。


向家は、言葉でもって国を平和にしていたわけで、王国の象徴としと広矛はあったものの、武力ではなく言葉で和した、そういう国が太古の日本だったのです。


ニ神とは、クナトの大神 と幸姫命(サイヒメノミコト)であり、道祖神ですね☺️

この向家を、のちに富家と呼ぶようになったとありました。


では、この出雲の人々の起源は?というと、インドから太古にやってきたとありました。出雲は、出芽(イズメ)の国のことであり、温かいインドの常緑樹を思いながら、寒い出雲の土地で出芽をまち、新芽の緑色をめで、伸びて発展するようにとつけられたようです。


2神は、インド由来のクナトの神とサイノカミ。息子はサルタ彦大神であり、三柱の3を聖なる数として、三拍子揃ってめでたいとしていたようです。


結婚式の新郎新婦の三三九度の三には、出雲のこの聖数に起源があり、九度はクナトからみたいです。


トリビアに使えそうですね😚


出雲王国は物部氏によりやがて滅ぼされますが、

クナトはイザナギへ、サイ姫命はイザナミへ変わり、またイザナギが禊ぎの際にうまれた「伊豆能売(いずのめ)神」は、「出芽」🌱からだと本では語られていました。


厳の霊(いづのみたま)、これもイズノメからきているのかな、


言向け」の言葉は、のちには「征服する」という意味で使われるようになったと本でありました。

いつくらいから、コトムケが征服する意味になったのか、、向家=富家が征服されてしまったからなのかは、わかりませんが、


言向け=コトムケ=平

言向け和す=平和


言向け和すことだけで平和を保つのは今の時代難しいのかもしれませんが、

他国を武器や武力で征服しよう服従させようなどとしなければ、

どの国にとっても一番平和でいられる素敵な🕊方法なのかもしれませんね。




鷺について ③鴉鷺合戦物語

2022-12-18 06:29:00 | 神話・物語・本から

一昨日からの続きです。


御伽草子の鴉鷺合戦物語の後半です。


④黒い鳥の真玄方には(とび)出羽法橋(ほうきょう)、鶏(にわとり)漏刻博士

⑤白い鳥の正素方には(つるの)紀伊守、青鷺信濃守(しなののかみ)らが集い、一大合戦となった。

方が敗れ、鴉の真玄は高野山に登り、仏法僧の手で出家、勝者の正素も、ともに念仏修行した。


勝手に検証しています。


神武天皇は、大和の指導者、長髄彦の強さに苦戦します。しかし、八咫烏(鵄)の登場により戦況が変わります。出羽法橋とは、刀のようです。




また、時刻を漏らす=漏刻の鶏は天照大神の天戸開きのきっかけになった長尾鶏を思います。


 白い鳥の正素方には鶴紀伊守、青鷺信濃守らが集うとあります。

皇統が、南北朝に分かれて争う時代、太古から抗争が繰り返される中、作者は白鷺の一門が「正しい素」だと考えていたということでしょうか。

鶴紀伊守の鶴ですが、敦賀、ツルガを調べていたからか鶴といえば、ツルガを思います。

福井の敦賀の気比神宮の御眷属は白鷺です。ツルガは古代越国であり太古、白山王朝があった場所です。


白鷺は、古代王朝や隠された王朝の一門を象徴する鳥だといえるかもしれません。


また、劔神社という福井の敦賀にあります気比の神社の話をしたいと思います。

実はこの神社は織田信長の祖先が護る神社であり、この地は織田家発祥の地です。織田家は神官の家系で、忌部氏の流れがあります。

また、戦国大名の織田氏と伊達氏は長脛彦の子孫を名乗っていたようです。長髄彦は白鷺になったイメージがあります。(すね)を怪我した白鷺が道後温泉に癒しに来ます。長髄彦は東北で荒巾へ。




伊達家は、長脛彦の兄であり「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の安日彦の血統の様ですが、織田家は長脛彦の直系のようです。

ではなぜ、神功皇后に征伐された忍熊王を祖とする劔神社が織田信長の祖先なのかというと、

長脛彦の子孫である織田家が忍熊王に繋がりがある?か、もしくは、長脛彦🟰忍熊王かもしれない、可能性があるようです。



劔神社で素戔嗚大神が忍熊王の夢枕に立ち皇子努力せよ、われ今汝に霊劔授くべし、と語ったと言われています。
宇治で亡くなった菟道稚郎子と忍熊皇子逸話が似ていると宇佐で感じました。何か悲しい雰囲気を宇佐神宮の春宮(菟道稚郎子のお宮)で感じ、その後調べましたが、忍熊皇子と逸話の類似点の多さから、大きな権力争いの末、非業の最期を遂げた話を別々に描かれたのかもしれないと思いました。

また青鷺の信濃にも太古縄文からの信仰を大切にした守矢一族と、国譲りで天津神に破れたタケミナカタ神がいます。妹が倭姫宮で見た青鷺は偶然ではない気がしています。



倭姫宮 青鷺にあう(妹のブログより)

倭姫は亡くなるとき白鷺になった日本タケルのおばさま。

2柱には戦ったかもしれない逸話(日本タケルvs出雲タケル)がありますが、騙し討ちの逸話は奇妙であり、白鷺や青鷺で括られるとしたら、二柱は共通の苦しみを背負って、真実を有耶無耶にされている感じがしています。


⑥最後、鴉(カラス)は敗れ高野山で出家します。紀伊にあります高野山金剛峯寺は、空海が開山した地で、また近くの熊野神社は八咫烏が御眷属です。

勝者の白鷺も念仏修行したとあり、念仏を唱える仏教宗派は、比叡山延暦寺を開山した最澄の流れを汲むものです。

最澄と空海は平安時代の仏教の二大勢力でした。


カラスと白鷺合戦は、両者共々最後は神仏に委ねるストーリーとなります。一条兼良は、何を感じて物語を創作したのでしょうか。

白と黒の対照的な鳥の合戦物語を書いた作者は、室町時代という戦乱の世、上に立つために、自分の系統の正当性を主張して戦いを繰り返すのだなぁと、公家の立場から皮肉にも神社の御眷属に人々を擬えて物語を創作したのかもです。😌

富士山は日本の調和の象徴です🇯🇵🗻

冨士本宮淺間大社で黒鷺の飛翔を見ました。

白黒偏らない大切さ、陰陽のバランス感覚をもちなさいということかな。。

戦いは悲しみや遺恨を残し、それは月に鶴が飛んで持っていくような、そんな感じもしています。

月光が優しいのは、悲しみを背負って月に持ち帰って知っているからかもとふと思いました。


月にうつる鷺(鶴)


御神名は勝手に人がつけたもの。白鷺に例えられた一門は、実は、一括りで大きな陰陽の陰のエネルギーを引き受けているのかも。。悲しみや苦しみを受容したものや、自由を奪われたり、隠されて消されたり、歴史の闇に葬られた存在かもと思いました。月はプラズマのように全てを映し観て、トキ刻むように血の涙でさえ刻んでいるのかも。トキは朱鷺も書きます。



朱鷺

鴉鷺合戦物語の著者一条兼良によると、籠の中の一門は白鷺。カゴメカゴメの歌にも籠の中の鳥がいます。令和の時代には、霊も和して全ての霊魂が癒されて、自由に高く高く美しく飛翔しますように。




【画像はおかりしました】




鷺について ② 鴉鷺合戦物語のつづき

2022-12-17 06:51:00 | 神話・物語・本から

昨日の続きです。


室町時代の御伽草子の鴉鷺合戦物語(あろかっせん物語)です↓。まずは、前半の①〜③を。


祇園林の(からす)である東市佐真玄が、


中鴨の糺の森の鷺である山城守津守正素の女を思いそめ所望するが拒まれ


③仲間を(きゅうごう)鴨を攻めた。


では、勝手に検診します😚


①カラスからは、神武天皇を導いたとする八咫烏を思います


祇園は、古都京都にあり、平家物語の「祇園精舎の鐘の声」の祇園であり、応仁の乱の舞台でもあり、諸行無常の代名詞の様な場所です。


②糺(ただす)の森は、京都市左京区の賀茂御祖神社の境内にある林のようです。

以前ブログで紹介しました不思議な三本鳥居があります京都太秦にある木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)にも糺の森はあります。


「糺」は、「正しく直す」「誤りを正す」という意味で、太秦は、秦氏との繋がりが深く、賀茂氏も秦氏と武内宿禰と繋がりがありました。



③白鷺に失恋することより、カラスは中鴨を攻めます。ところで、中鴨の鴨から、カモ氏について書いておきます。


カモ氏は2氏が有名です。山城国の八咫烏を祖とする方と、大和国、大国主命の子孫大田田根子の後裔を祖とし、三輪氏と同族とされている方です。


この2氏を意識したカモ氏同士の戦い?が物語に込められているとすると、カラス(八咫烏)に攻められた白鷺にあたる方は、大国主命の子孫(三輪氏)ということでしょうか。


また、白鷺は山城守津守正素とあります。

山城国は畿内にあり、一宮に上賀茂、下鴨神社があります。





その山城を守り、さらには、津守の津は港の意味があるので、港(海)を守る一門が白鷺にあたるといえそうですね。

津守氏は住吉大社の歴代宮司の一族であり、また、天火明命(饒速日命)の流れを汲む一族です。


山城守津守の正素より、山も海も守る正しいモトは、白鷺の方だと作者は暗示しているようにも思えます。


また、梟合はきゅうごうと読むんですね。ふくろう(梟)🦉は森の智慧者、私のイメージでは息子の名前をミミズク(梟)に交換をした武内宿禰様(カモ氏の祖です)。


応神天皇を抱く武内宿禰。




八幡神は宇佐では応神天皇だとされています。しかし、八幡神はどこかスクナビコナ神のようであり、スクナビコナ神は白鷺伝説のある道後温泉に縁がありました。



道後温泉の白鷺



つづく


鷺について 鴉鷺合戦物語

2022-12-16 05:55:00 | 神話・物語・本から

冨士淺間本宮大社で黒鷺の飛翔を最後にみて感動しました。

妹も数日前に倭姫宮で青鷺を見ていました。



九州でも亀のような森にとまる鷺の大群を阿蘇で見ました。



ずっと気になっていた気比神宮の御眷属も鷺でした。

応神天皇に上書き?されたスクナビコナ神が身体を癒した愛媛の道後温泉には白鷺伝説があります。


津野山にも鷺がお宮を建てる時いたなぁと、

白鷺に見守られて(妹のブログより)


鷺を調べていると興味深い話がありましたのでご紹介します。


一条兼良 鴉鷺合戦物語



室町時代に書かれました御伽草子の鴉鷺合戦物語です。その中に

「中鴨の杜をば二重とり廻て、鷺の一門をば、籠のうちの鳥のごとくにして

という表現があります。



カゴメカゴメ♪

の籠の中(なか=うち)の鳥は

は鷺だった!?のでしょうか。


鷺に象徴される背景はということで、この物語をじっくり読んでみました。


まずは、御伽草子の書かれた室町時代の時代背景を書いてみます。


室町時代は足利将軍が統治した時代です。天皇家が真っ二つにわれ、南朝北朝で皇統をたてた時代、中期は京都を焼け野が原にした応仁の乱、その後、下剋上の戦国時代100年の混乱です。続く安土桃山時代は織田信長の登場です。


あー、こんな時代に生まれなくて良かった〜と思うくらい戦いの時代です。😅


御伽草子の鴉鷺合戦あろかっせん)物語を書いたのは、一条兼良という公家の御方です。こういう時代背景の中、物語は祇園林の烏(カラス)と、糺(ただす)の森の鷺の合戦を擬人化して描いています。


では、物語をどうぞ。↓


祇園(ぎおん)林の(からす)である東市佐(ひがしのいちのすけ)真玄(まくろ)が、


中鴨の森の(さぎ)である山城守(やましろのかみ)津守正素(つもりまさもと)の女(むすめ)を思いそめ所望するが拒まれ、


③仲間を(きゅうごう)中鴨を攻めた。


④黒い鳥の真玄方には鵄(とび)出羽法橋(ほうきょう)(にわとり)漏刻博士が


⑤白い鳥の正素方には(つるの)紀伊守青鷺信濃守(しなののかみ)らが集い、一大合戦となった。


⑥鴉方が敗れ、鴉の真玄は高野山に登り、仏法僧の手で出家、勝者正素もともに念仏修行した


というストーリーを①〜⑥の順に勝手に検証します。太字は特に気になった所です。


鷺の一門とは、、?

過去に何回か鷺について書いたことはありますが、土佐国造り 大和との地名縁起 を書いた際知った万葉集の歌をふと思い出しました。


思はぬを 思ふと言はば 真鳥(鷺)住む 雲梯の杜の 神し知らさむ


事代主(日の出の神様、エビス様)がお隠れになった森の鷺について詠んだ歌。



鷺の一門とは、隠されたり、名前を奪われたり、名前を上書きされたり、敗北したり、悪者とされたり、差別的な名前をつけられて後世まで虐げられるよう差別された、深い悲しみをもった御魂の一門をさすのかもしれない、、とふと感じました。


長くなりますのでまた明日。




つづく


【白鷺画像はお借りしました】


気比 と神話の暗示

2022-12-06 05:47:00 | 神話・物語・本から

昨日からの続きです。マニアな話が続きます。話の飛躍も空想も沢山あると思います。


「ケヒ(気比/笥飯)」の由来としては、
『古事記』では「御食津(みけつ)」から「気比」に転訛したという説があるようです。


「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、食物神としての性格を表す名称とする説があります。


ケヒからはウケヒ、つまり、古代日本で行われた占いを思います宇気比誓約などと書くようですね。亀の甲羅の占いやら、鹿の骨を使った占いなどありました。鹿の骨を使った占いをしたのは海人族の阿曇族がいました。九州からは、もとは海で今は山深い安心院(宇佐神宮の奧宮のある場所)に移動し、さらに、北陸や長野に移動していると思います。


志賀海神社の神事(鹿の骨の占い)

亀卜と亀甲紋 (亀の甲羅の占い)


また、敦賀(元は角鹿)あたりの気比辺りは古代において朝廷に水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を貢いだ「御食国(みけつくに)」と呼ばれていたといわれています。


「御食国(みけつくに)」と呼ばれるということは、伊勢でいうと、天照大神を祀る内宮への食物を作るとされた外宮の豊受大御神のような存在かなと思いました。


ところで、月読尊と、素戔嗚尊について神話で同じような話があります。


それは、月読尊が天照大神の怒りをかう場面です。


まずは月読尊から


日本書紀より

天照大神から保食神(うけもち)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴きます。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で刺し殺してしまいます。

保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となっりました。

天照大神は月夜見尊の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになりました。これは「日月分離」の神話であり、、、続く

次は素戔嗚尊の話

古事記より

高天原を追放された須佐之男命は、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えました。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していました。

須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を殺してしまいました。

すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれました。これを神産巣日御祖神が回収しました。


大気都比売神は大月ヒメといえますから、月の神様ですね。神産巣日神様の子はスクナビコ神です。


月読尊の狼藉のせいで、日月分離の話として、太陽と月が仲違いした話があり、日本書紀では食べ物を与える神を殺した素戔嗚尊について描かれています。

食を司る神様で真っ先に思いつくのは豊受の神様(豊宇氣の神様)。国常立神です。豊かな氣を受ける神様、アメノミナカヌシのような、一であり無限でもある、宇宙にある豊かな氣のような神様で、国祖であり、それが無ければ誰しも存在すら出来ない神様だと思っています。


神話で語られるような日月の分離ですが、分離からは何も生み出さないですから、日月は分離せずに一つになるといいですね。月読尊も悪く書かれ、素戔嗚尊も悪く書かれていますが、悪く書く方にも分離意識を強く感じます。そういう象徴との争いがあったのですね。


ところで、食は噛むことから始まります。カムは醸したり、発酵食は身体にもいい。素材は取り入れるも違う栄養価の高いものにかえる。神は、カム。かんで身体にいれて吸収し、要らないものは排泄する。渡来人の来訪により、縄文からの信仰や一族は吸収されたり、排斥されたり、統合する過程で発酵したり?気比の神は御食津(みけつ)、海にまつわる食の神様ですね。カミカミ、カムカム、カモカモ。笑


自然と一体化していた太古から、人が生み出した物や想念により、だんだんと複雑に因果が絡み合う時代へ、統合から分離へ、一から多数へ、そして、日本は和しながら、変わっていったのかもしれませんね。