大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

高知市潮江天満宮

2024-04-10 05:35:00 | 神社仏閣

昨日の続きです。


安楽寺の住職さんのお話によると、

伝承によれば、菅原道真公の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮を建立しました。





安楽寺は、いまは、八十八ヶ所巡りでは奥の院です。


潮江天満宮は、娘達が七五三をしたり、また、末娘のお宮参りの場所です。


菅原道真公は怨霊なんていわれて、とんでもない!清らかな御方を貶めたことは、貶めた本人がいちばん分かっているはずだ!と、以前も書いた記憶がありますが、、、

道真公のご長男の高視朝臣が同時期に土佐に配流されていたことなどは、安楽寺の住職さんに教えてもらうまで全くしりませんでした。


法要も無事終えて、次の日は飛行機の時間が遅かったので、潮江天満宮に参拝せねば、、と久しぶりに妹と行きました。


この神社、本当によかったです。天神町にあり、近くを鏡川が流れます。


白太夫は、道真公が太宰府でおなくなりになったあと、遺品を太宰府から侍臣白太夫が遥々ご長男のいる土佐までやってきます。



白太夫

しかし、白太夫は、長旅で高知市長岡郡船戸でお亡くなりになってしまいます。。長岡郡には、大豊に日本一の大杉があったり、龍王の滝があったりします。

「長岡郡」とは、奈良時代には陸奥国(東北)にあった地名であり、「船戸」は、高岡郡津野町にもあります。水に関係するところなのでしょうか。津野町船戸には西日本の龍神様の聖地、白龍と黒龍の棲む稲葉洞があります。


高知市,土佐は、昔は配流先ですので、東北との地名の共通点にはどこか因縁を感じます。

陸奥は、アラハバキ神を祀ったり、隠された神々の聖地、蝦夷とよばれ差別された人々が住む地。

土佐にその地と同じ地名があり、道真公の忠臣の侍従が亡くなったという歴史があったとは。安楽寺の住職さんから潮江天満宮についてきかなかったら、知らないままでした。


昔は、車とかないだろうし、土佐は特に四国山地がキツイだろうなと思います。

道真公ご長男の高視朝臣は、白太夫が遥々持参した亡き父の遺品を収め、霊璽として、潮江天満宮に祀ったのです。


境内には、道真公、左に、長男高視、右に北の方が祀られていました。

相殿には天穂日命、大海津見命

境内には白太夫社、若栄社、大山祇神社、早良宮、島崎神社、幡竜宮が祭祀されていました。

道真公といえば、梅を愛し、一晩で飛んできたとされる飛龍梅。高知では、飛龍梅はまだ咲いていませんでした。


潮江天満宮のショートムービーをどうぞ。





高知市 安楽寺

2024-04-09 05:42:00 | 神社仏閣
父の一周忌の法要で帰省しました。


故人でも、肉体はなくても御霊は生きているもの、蝶やトンボ、鳥や蜂なんかの生き物に瞬間に宿る気がしており、お墓で蝶が飛んできたり、大きな蜂が飛んできたりしたのは、お父さんの御霊が一瞬宿ったのかな、とか思うと小さな虫の命も愛おしい。


ところで、

安楽寺という真言宗のお寺の住職さんを一周忌の法事を家でするためにむかえに行きました。


我が家への道すがら、住職さんから安楽寺の歴史を噛み砕いて教えてもらいました。


菅原道真の長子である菅原高視が、父道真公と同じ時期に土佐に配流され、この高知市の潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、土佐の地に建立します。


また、潮江天満宮も建立します。潮江天満宮は末娘のお宮参りの地です。


寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転します。(潮江、升形、久万はいずれも現・高知市内です。)。


その後、安楽寺は大寺院となりますが、1467年に始まる応仁の乱の兵火を受けて焼失し衰退します。京都の次に凄まじい戦いが繰り広げられたのが、この土佐だったといいます。


その後、100年続いた応仁の乱がおわり、1590年の金剛福寺文書に「久万安楽寺」とありとの記載で、当時は久万に寺があったことがわかったようです。


安楽寺は、その後、江戸時代に弘法寺(現・高知市三谷の三谷寺)の栄俊大徳により再興されますが,明治時代の廃仏毀釈の影響でついに廃寺となります。


しかし、明治8年に長宗我部氏の菩提寺であった旧瑞応院跡に再興されます。


創建→衰退→復興→廃寺→再興


まるで、七転八起です。人の人生みたいです。


人生色々

お寺も色々


再興したあとは、また色んな経緯を経て今は四国八十八箇所の第30番札所奥の院と定められています。


昨年、高野山に昨年行ってきました。

2024年は弘法大師御誕生1250年で、八十八番札所から一番札所に向けて逆回りでめぐる逆打ちお遍路ができる年みたいですね。


安楽寺の住職さんにのような歴史を聞かされるのも、不思議と意味があることに感じました。


つづく


恵比寿さまの御神木と耳の神様 参拝

2024-04-08 05:46:00 | 神社仏閣

昨日の続きです。


金毘羅からつづく細い道をあるきその後は、恵比寿さまへ。


御神木は大きくて、、かわらないです。

素敵な空間です。

この地が長いこと誰からも忘れさられていたとは思えないくらい、荒れずに残されています。

隠れた聖地とは、そういうものなのかもしれません。


千手観音と私は思っています。人から忘れさられても、何があっても、この大地を、人を、自然を守る観音様もこの地にはいらっしゃる。優しい恵比寿さまも。









恵比寿さまから、金毘羅にもどり、金毘羅様から山をおります。



この道をつくってくださったんですよね。。昔は何も無かった。有り難い。。


山を降りると、次は耳の神様に行く前に、水神様に手をあわせました。ついでに、四万十川で足を。

あー、冷たい。気持ちいい。

綺麗な水。綺麗な空気。気の良いみんな。心地よい時を過ごしました。




足を拭いてから、耳の神様まで歩いていきました。先ずは荒神さまに手を合わせます。次に耳の神様。


姉と妹の友達のご主人は、2人揃うと漫才がはじまります。


耳の神様に向かう参道の竹藪の竹が、元気がなくて、大丈夫かなと思いました。

もっと青青していたはず、、。

耳の神様、角山神界の神様、この高知の、四国の大地の御守護をよろしくお願いします。


最後は白龍湖。



前来たときより、鯉が重そうでした。😓

エサが売られていて、観光客が餌をあげるのでしょうか。

これでは、、鯉の成人病を心配してしまいます。湖に泳ぐ猫みたいになっていました、、。



不自然です😞

前、観光地になっていない時は、もっと優雅でした。


きっと水にあるプランクトンとかでも生きるはず。。錦鯉は、10日くらいエサがなくても生きるみたいだから、ダイエットさせて欲しい。

こういう場所はエサをあげないでください、、とか書かれているような気がしますが、逆!!ではないですか、、。


少し歩くと、蛇ケ淵です。石がつまれています。前はそんなことなかったなぁ。

弓矢権現のお話とかもあって、田舎にまつわるこういう伝承って、私は好きですね。





とても楽しい1日を過ごせました。津野山の神様ありがとうございました。



稲葉洞から金毘羅様へ

2024-04-07 08:05:00 | 神社仏閣

父の一周忌で帰省しました。少し前のことです。


あちらの世界で、父は頑張っていることと思います。賑やかな3姉妹が帰省すると、父もこちらの世界をみに来ていたのかなと、所々で父を感じました。


一周忌の前日は、津野山に妹夫婦、妹の友人(お客さん)と、姉と、計7人で津野山に行きました。


やはり、ここは聖地だなと思いました。


先ずは、義堂絶海のふるさと、津野町船戸にあります稲葉洞へ。白龍と黒龍がおられる龍王洞で、不入山の入口のようでもあります。ここは、四万十川が目の前に流れ、本当に美しいところです。






白龍になったとされる綾姫伝説が伝わります。




皇室にとつぐも、後継問題に苦しみ悲しみの末に亡くなった綾姫さま。絶海和尚につれられて、この地、四万十川源流の里まで逃れるも、最期は命をたたれ、白龍となった伝説があります。絶海和尚の生きた時代ですから、室町時代初期ですね。





義堂と絶海は、五山文学で有名で、こんな山深いところからよく登りつめたなぁと思います。


先日参拝した、天龍寺の夢窓疎石とも縁があり、また、絶海和尚は、京都では、相国寺にいたお坊さんです。


時代は違いますが、江戸時代の白隠和尚も京都では相国寺にいたようで、動画にした時は知りませんでしたが、不思議と繋がっているんだなぁと思いました。



津野山では、まず金毘羅様に参拝しました。

1年前は、母ときましたが、今回は、母は痛みがあるので行けませんでした。



金毘羅様では、桜や梅が咲いていました。この地を愛する縁ある身魂の皆さんが植えてくださった植物が生長しつつあります。




母が奉納した砂利が従兄によって山のてっぺんに運ばれていました。感謝。この砂利を妹達家族が近々広げるみたいです。。




これまた感謝。


つづく



天龍寺と三十三間堂へ

2024-03-20 09:26:00 | 神社仏閣

貴船神社に参拝した次の日、どうするかを娘に聞いてみました。

すると、竹林の小道に行きたいというので、どこにあるのか調べていたら、天龍寺の北口から続く道とありました。

天龍寺という名前は、夢で見たことがありました。石碑に天龍寺と刻まれたところの門からすごい数の馬が走りでるのです。それをテーマに愚作の創作童話を書いたっけ😅


夢では、亡くなった友と貴船姓に縁がある友ともう1人の友と眺めていました。不思議な夢だったので覚えていました。


嵐山の駅に着くと平日ですが外国からの観光客が沢山いました。そして、天龍寺に到着です。

お寺の門の隣に大きな石碑がありました。大本山天龍寺と刻まれています。この石碑みたいなの、あの時、夢でみた、、かも、正確にいうと、天龍寺の門の隣に、この石碑みたいなのがあって、同じではないけど、似ている、デジャブのような感覚になりました。




南北朝時代をいきた禅僧、夢窓疎石は、南朝の後醍醐天皇にその才覚を見い出されます。天龍寺は、その夢窓疎石が後醍醐帝の鎮魂のために建立しました。夢窓疎石は世界史上最高の作庭家で、庭園は今でも観光客を魅了しています。

また、近くの渡月橋も夢窓疎石の作のようです。




母の実家である津野山出身の臨済宗の僧、義堂絶海らと共に、夢窓疎石は五山文学の有力漢詩人だったようです。特に絶海中津は、夢窓疎石から教えを直接うけたとありました。

義堂も絶海も五山文学の双璧であり、以前十牛図をこのブログで書いた時に紹介しています。


天龍寺に入るとすぐに達磨仏の絵がありました。


私は坐をしていますので、達磨仏を尊敬しています。また、寺院内にあった雲龍図はそれは圧巻でした。








庭園を散策後北口を出て竹林の小道に入りますが外国人観光客が多かったですね。きっとガイドブックにあるんでしょう。竹林は風で,ザワザワゆれ、まるで風に龍が泳いでいるようでした。雲龍図の龍かしら?






人混みからか、娘の体調が少し心配になり、折り返して嵐山駅に向かいました。

京都駅につくと、あとひとつ行きたい神社があるというので、東山方面にある神社に行きます。


その神社はひとりでいくというので、私は娘を鳥居前で待っていました。御祭神の一柱が大物主神でした。三輪山の御祭神です。この神社は強い縁切りと縁結びの神社らしく、私と縁が切れたら嫌だから、、と験担ぎのようなことをいうので、娘の意向を尊重し、鳥居近くで待っていました。沢山の鳩が飛んできました。




平和だなと思いました。


最後は、三十三間堂にいきました。姉も妹も良かったというので、私が同じバス路線だし、行こうとリクエストしました。観音様の像が沢山あります三十三間堂の33って、三三だな。

津野山のミミの神様、観音様。と先日

教えてもらいました。

津野山の恵比寿様の御神木が千手観音みたいだと以前書いたことがありましたが、沢山の千手観音様の像が三十三間堂にはありました。



津野山神界 恵比寿様の御神木


何か形にあるもの、ご本尊にでもすがって祈りたいという人の思いや、この地に蓄積された祈り、人がもつ様々な思いや、どうしようもいかない思いを、ただ救いたいという優しい無形の思いで、仏像という形あるものをこえた、みえない菩薩様がおられる気がしました。

津野山の耳の神様のような優しい神様かもしれません。


娘に色々良かったね。行く予定していなかった三十三間堂を娘は気に入ったみたいです。

少しずつ。一歩一歩。

きっと大丈夫。

辛かった分大きく成長することでしょう。