一昨年前に、とあるお寺の敷地で青鷺をみました。
冷たい冬の早朝の凛とした空気の中に不思議な感覚があり、ふと静かな池の中、僅かに動く何かを感じました。目の先にそれは美しい青鷺が1羽いました。
池の中には観音様の像がありました。

この観音様、夢違観音のようですが、
私には勢至菩薩様のように感じています。
そして青鷺は、エジプトの神様ベヌウそっくりでした。
ベヌウの頭には水の瓶があります。水の瓶を頭にのせたのは勢至菩薩様です。
だから、池の中に佇む観音様は勢至菩薩様かな、、と単純に感じました。頭に化仏を載せた観音様と似ていて間違われるようです。


勢至菩薩とは、智慧の菩薩様で、観音菩薩様と共に阿弥陀如来の脇におられます。

富貴寺
観音菩薩は慈悲の力で人々をすくいます。勢至菩薩は、智慧の力で地獄に落ちる可能性のある人々をすくうようです。だから、地蔵菩薩にも近いのかもしれませんね。
そして、勢至菩薩は日本神道でいう月の神様、月天神、月読尊とも言われているようです。
陰陽でいうと陰担当なのかもですね。闇に堕ちそうな衆生を智慧の力ですくうのです。月の満ち欠けはみかけのものですが、人が生きていると、必ず浮き沈みもあります。
浮き沈みも多分一時的な見せかけなのかもですが、沈んで闇を彷徨う時は、あまりにリアルで長く感じてしまいます。
自分に起こったことは、自分がとりくむ課題で、課題を他人にやってもらってもその場限りで実力もつかないし、意味がないです。
課題の解決を望むけれど、答えなんてひととおりではなかったりします。しかし、もがきながら課題に向き合った時間は、自分の中に残ります。あれもこれも、もがいた後、気づけば、内側の脆いガラスが強いガラスへと変わっていた、そんなこともあるかもしれない。陰の中から、殻を破り発する光は輝くしかないのかも。
青鷺がいた空間は、今でも忘れられないくらい空気感が違いました。段々とその場が清まり光りました。あの空間に私ひとりでした。青鷺と目があいました。
青鷺の中に神様の化身をみたような気がずっとしています。
「陰の中」の光は、もしかしたら、こんな優しい雰囲気を醸し出し、ゆっくりと、その空間を静かな波のように清めながらも、跡形なく、天高く飛翔しながら、自分を確かに変えるのかもしれないですね。

闇を光へ。
こんな小さな子供たちが、
お母さんが作ったパンを売って
家族のために働いている
学校もいけず


お父さんは戦争でころされた、、と。
小さな子が生きるために、はたらく

日本は、食べるもの、住む所
いたれりつくせり
しかし
目には輝きがない人が多い
学校。行きたくないのに、
行かねばならない場所。
王子とこじきという話があったな、、
立場変わったら何を思うだろう
学校。行きたくても行けない場所。
学びって何なんだろう。

あしたから、
今まで与えられていた当たり前が
全てなくなり、灰色の生活がスタートしたら
どう思うだろう
戦争で、悲惨なことが毎日起きている
同じ地球上で🌍
大人が武器をつくり、爆弾を落とし
ひとをあやめる。そんな世界に
未来はあるのだろうか
先進国の大人は学校で何を学んだのか
学校の与える学びは何なのか
そこに安心はあるのか
全て相手の国のせいにして。
鬼畜な行為を繰り返す。
胸は痛まないのだろうか。
ハートはあるのだろうか。
戦争やめようよ。
子供が働かなくても良い世界を
みんなでつくろうよ。
この写真をインスタにあげている人は、出会う子供達ひとりひとりに、アラーのご加護がありますように、と声をかけていた。
どうか戦禍の中で彼らが生き抜けられますように。
明るい心で、性を見る。
性とは仏性、真の性で、心を統べる。
文字で書いてみると、わかるようなわからないような。
この「心」は、明るい心や暗い心、色んな心がひとりの人の中にもあって、その心次第で仏性が見えたり見えなかったり、、
ということではない気がしてします。
見性は、自らの本性を見ることだとしたら、
自分が何者かわかることで、
心に自我がなくなれば、性が自然にあらわになる、という感じかなと思っています。
明らかな心とは、このあらわになった心で、
最初はほんのりとした色がついているのかもなとも思いますが、ほんのりついた色も、究極は透明になるのかな、、。
区別のない広い大空のような心。普く光る太陽、全てを包む大空。遮らない心。
白隠禅師は、
自分のために修行するのを「上求菩提」といい、
他者を救済するのを「下化衆生」 と説きました。
両手を叩けば音がするが、隻手(せきしゅ/片手)ではどんな音がするか聞いて来い。

白隠禅師の絵
これは、白隠禅師が語った言葉です。
何も響かない。。。何も鳴らない。かな。仏性を求めつつ、周りを惜しみなく教化する。自利(智慧門)と利他(慈悲門)を並行して行うのが菩薩行。
まだまだ自分は悟っておらず学び中なので何もしない、とか、宗教や教義は、それを与えられた自分たちだけのもの、という意識がもしあるなら、
それは自利を自利のままにしていたり、自利に優越を感じていることかもしれません。良いものは、それを普く広めてこそ、大空の心かもしれないなと最近感じています。
様々な教えは、信者にとっては格別なのかもしれませんが、格別であっても、格や別の言葉は、どこか、区別があるような気もしています。
格別だという心がある以上、学びに執着が生まれ、自我を気づかせる何かが起こります。反省は学びの中から生まれるとはいえ、心が曇ると自分の内にあると信じていた「空」は、空ではなく、雲に覆われた我だったとわかります。そうして、気づいた我を見、その我見を破りつづける過程が、実生活に根差した修行かもです。
煩悩の根っこを、どんどん抜いていくと、ある時、その根っこさえ生まれようのない奥の奥に辿りつき、そこは、全ての命の根をささえる大地の土のようでもあり、また、雲の上に広がる大空のようでもあり、全てを浄化し循環する水や大海のようでもあり、行きつく先は自然かな。自他の区別がないところ。それこそが明るい心なのかもしれません。
自分という実体の心の癖をしっかり見つめ、雑草の如く簡単に根をはるそれらを取り除きつつ、平行して外に向かって今の自分でも出来ることをこつこつとしていく。
どんどんと明るくなり洗われた心により、仏性が顕われると、それは明らかに行動にもあらわれるのかもなと感じています。
明心見性。
内奥にある心の目、「◯に・」は、生きた心(性)が顕に開くことかなとも感じています。生きて生きること。命を生かすことかな。
