徳には道徳、明徳、陰徳、玄徳などがあるようです。
明徳とは、天から与えられたすぐれた特性のようですね。
古代中国の書には
大学の「道」は明徳を明らかにするにあり
とあり、原文は
「大学之道、在明明徳。」
となっています。
意味は「君子が実践する大いなる学問の道は、天与の徳(良心・仁)を明らかにすること」のようです。
大学とは、〇〇大学とかを思い浮かべそうですが、ここでいう大学は、古代中国の書であり、
天下国家の政治もその根本は一身の修養にあることをといているのが『大学』みたいですね。
一身を修養するわけですから、生涯大学みたいな感じかなとも思います。単位を取得したら卒業とか、そんなものではなく
大きすぎて決して捉えることの出来ないもの、人が全身全霊をかけ生涯「学び」続けるのが大学(大いなる学)であり、学びの対象は無形のようにも感じます。
徳が道(どう)に則っていれば道徳です。道は無形ですが、陰徳や明徳というくらいですから、陰と陽の働きはありそうです。
「徳」という字の本字は、「悳」と書いていたそうです。「直」の下に「心」を書いた字が本なので、漢字からみると「素直な心」で「行う」のが徳です。
「大学之道、在明明徳。在親民、在止於至善。」
大学の道は、至善に止まるともあります。
「道」が素直な心からの行、「徳」と一体なると、自然に至善となり、それが明らになったものが「明徳」なのかもです。
徳は行動が裏づけになっているとすれば、原動力となる行動も道(ドウ)に則したものになります。
道って奥深いですね。
陰徳は、影で人知れず、人のため、社会のため、大地のため、地球のための行いのようにも思います。
明と陰は、対の概念のようにも思われそうですが、何かをすれば、思うだけでも、何か見えざるもの(陰)を残します。
その、見えざるものこそ、大いなるものを下支えするものであり、道に則っていれば陰徳となるように感じます。
徳の根が陰徳で、根をじっくりと土の中に深めながら、茎や幹が息吹きます。その目に見えるものは明徳かなと思います。
根と茎や幹は繋がっていますから、実際は一つのもので、この一つのものこそ、道の一部かもしれません。
日本神話でいうと、国常立神です。大地の神、隠れて下支えしてくださる神様です。天地の自然の運行の地の部分をしっかり支えて、無形の恵みを与える存在です。
「徳奥」という言葉が中国語にあるようです。陰徳のさらに奥の働きのように感じますから、玄徳に近い気がします。玄徳とは、老子によりますと「産みだしても所有せず、成功しても誇らず、そこで最高になっても支配するようなことをしない。 それを玄徳という」とあります。
徳奥は日本語にはありませんが、
中国語では「ドウ」と読むようです。
道という漢字が当てはめられていなくても徳の奥も「ドウ」なのです。
始めに言葉ありき。ドウという響きは
文字の無い時代にも実はあったのではないかとさえ思いました。
原初にただ存在した一。
大学の「道」は明徳を明らかにし
また至善に止まります。
至善は、自然と同じ響きです。
道の教えである道徳経を2500年も前に残し、無為自然を説いた老子。
道、徳、自然の理を81章に全て凝縮します。「明徳」出版からでた道徳経の書は素晴らしいと思いました。
名づけることの出来ないもの。無名、無形の道(ドウ)。それは、妙(ミョウ)でもあり、本来、ヒトが求めるべき道(ドウ)であり、また「未知」ではあるけれど、必ず脈々と続いて行く唯一無二の大いなるもののように感じます。