達磨大師の弟子には、昨日書きました慧可の他、道育、尼総持、道副という四人の弟子がいたようです。
「皮肉骨髄」という訓戒があり、この四人に、修行によって得られた仏教の本質・禅の要旨を達磨が問う話があります。
道副は『私は、文字にとらわれず、また文字をはなれないで、仏道を行じます』と答えます。
『汝はわが皮を得たり』と達磨はいいます。
尼総持は、『私の理解では、愛欲も怒りもしずまって、よろこびは、仏国をみるようです』と答えると、
『汝はわが肉を得たり』と達磨はいいます。
道育は、『物を構成する地水火風の四大も、因縁がつきますと空になり、またすべての事物は、色受想行識の五蘊が仮に和合してできているので、もともと有ではなく、一法として得べきものはありません』
『汝はわが骨を得たり』と達磨はいいます。
最後に慧可は、ただ黙って達磨に礼拝してもとの位置につきました。
それをみて、『汝はわが髄を得たり』と達磨はいいました。
達磨大師は、慧可を後継者とします。
皮肉ということばは、こっからなんですね。
英語で皮肉はirony。ironは鉄。鉄は物質文明の象徴のイメージがあり、皮肉が、英語で鉄の語源とおなじなら、物質文明は皮肉にも、上部重視という感じかな。物質の反対が精神なので、髄は、心を大切にした感じがします。
本当のことは髄まで染み込むし、わかるとはそういうことで、上部、ではない。
それは、経験すること、により一番わかる。染み込む。辛い思いなどは、身体の髄まで染み込む事なので、そう考えると、辛い経験は、実は、自らの心を広げるのかもです。
面の皮が厚いとかいう言葉もありますが、皮が厚く厚くなると、上部の皮をさらに鉄の鎧で固めた感じで、本当のことは何も入ってこなくなる気がします。
この皮や肉を通りこして、固い骨の中の心髄、神髄に染み込んだもの、
それこそが、
その人の真価なのかもしれない、、
とこの逸話を知り、思いました。😌
【画像は白隠禅師の描いた慧可の禅画より】