重い荷物の話を紹介します。
2人の僧侶が町に着くと、雨がふっていて道には水溜りができ、川は水傘が増していました。若い女が籠椅子から降りることが出来なくて待っていました。川を渡ると絹の着物が台無しになります。
女は椅子の上でイライラしてぶつぶつ付き添いの者に文句を言っていました。付き添いの者は荷物を持っていたので、女を抱えてあげられないのです。
若い僧侶はその女に気づきましたが何も言わず通り過ぎていきました。年寄りの僧侶は女を背中に乗せて水の上をじゃぶじゃぶと渡り向こう岸に下ろしてあげました。女はありがとうすら言いませんでした。僧侶を押しのけてフンと行ってしまいました。
その後、2人の僧侶は旅を続けました。若い僧侶はその女のことをずっと考えていました。数時間経っても怒りを抑えられなくて、年寄りの僧に話し始めました。
「さっきの女は自分勝手で、礼儀もわきまえないのに、何故背中におぶってあげたりしたのですか。ありがとうさえ言わなかったではないですか。」
すると年老いた僧侶は言いました。
「私はあの方を数時間前に下ろしましたよ。何故貴方は未だに持っているのですか。」
ここまで
過去の嫌な事を思い出し、大切な今の時を台無しにすることがあったなぁと反省します。
「金剛経(こんごうきょう)」というお経には次のような教えがあるようです。
「お釈迦さまはいつもおっしゃいました。『修行をする人たちよ。私の説法は、筏(いかだ)のようなものだと心得なさい』と。」
筏(いかだ)は、川を渡るためには必要なものです。しかし、川を渡ったあとも、いつまでも筏をかついでいるのでは、かえって荷物になるばかりです。」
ある場で必要でも、別の場では必要ないものはあります。それをずっと持っていると執着に変わるのかもですね。薬も、治ったのに飲み続けると良くないように。
先日、夜妹が関東に遊びに来ているので妹宅に向かって夜歩いていたらこんな貼り紙が教会の前にありました。
重荷は、色んなのがありますが、執着という重荷は疲れさせます。だから、疲れたなぁと思ったら執着していることを思い浮かべ、思いを重くしないでパッパって流し楽にありたいです。
筏を次に必要な方にはいどうぞと渡します。良いものなら、人がそれによって楽になりますから。
私の場合、神様を思うと心が楽になります。絶対大丈夫の心境です。クリスチャンでは無いけれど、この聖句は神様がいつも一緒だと気づかせてくれました。
少し思いを引きずって重くなっていたのかも。心が疲れたら、筏もってないかなっ?オールも手放して軽くなって良いんだよ。
溺れずに今生きてるってことは、今まで一生懸命漕いだよね、少し荷を解き、今までも、これからも大丈夫と自分の心を楽にして緩めて上げます。
【画像は筏検索画像より】
重き荷物を、持てる者は幸いである。何故ならば、神の重責を肩代わりしているからである。
重き荷物を、持てる者は幸いである。何故ならば、その苦悩を自ら進んで受け入れた、慈愛があるからである。、
ある日突然重荷を背負うと、身体も心も切り裂かれる位苦しみますが、人は慣れていくものですね。
苦しみにも、そこにとどまるなと言われているようです。
また、重荷さえ、多分ですが、優しい他を思いやる方の祈りが届いて、軽くしていただいていると感じます。そして、何も言わずそうしてくださる優しい心の恩人に、心から感謝しています。
ちょっと、ウルっとするコメントでした。ありがとうございました!