新井満さんの十牛図を読みました。新井満さんは、千の風になっての日本語訳をされた方という認識しかなかったですが、十牛図について自分で訳をつけている事を教えていただき、本を即注文しました。
新井さんの訳を一通り読み終えた次の日、新井さんがお亡くなりにになったということをブログを通して知りました。
ああ、風になられたのかなという感じがしました。ご冥福をお祈りします。
新井さんの十牛図の訳はとても優しかったです。お人柄が偲ばれます。十牛図以外にも般若心経の訳もされています。
般若心経でいえば、柳沢桂子さんの訳を読んだことがあります。長年原因不明の生き地獄のような病に苦しみ、その病は妹がかつて苦しんだ病でした。当時は認められない病です。
話を戻しますと、訳には自由な解釈があり、経典などの理解や、昔の聖人の残した書物などは、それを訳した人の心が感じたままに翻訳され紹介されています。
新井さんの著書の中で、新井さん自身が若い頃、般若心経を理解することは難しいと感じていたけれど、大切なお母さまを亡くされてからよむと、とても良くわかってびっくりされたという話が紹介されていました。
私事でいうと、1回読んだ本では、自分が殆ど理解していない事もあり、2回、3回と読み返していくうちに、理解が深まることはあります。
噛めば噛むほど味わい深くなる感じです。そういう本はお気に入りで多くは無いですが、何冊かありまして、時間をあけて読むとこんな事書いてあったっけ!と発見して味わいます。スルメみたいですね。
しかし、般若心経の様な経典は、自分の方が、色んな経験をしたり、きちんと考えて味わい深くならないと簡単には理解は出来ないようにも思います。
新井さんがお母様の死を通して、同じ経典が深く身体に入ってきたように。
新井さんの訳の深さや優しさは新井さんそのもの。そう感じると、言葉で書かれた物が味わい深いのは、それを書いたひとが味わい深い方だからだと思います。
聖なる経典は、聖人の弟子が書いた物が多いですが、今に残る経は、幾つもの生をへたような、そして、そういうものを学び、またわかろうとする姿勢を恒に持つ人が読み、毎回はっと出来るほどのものだと思います。
まるで自分自身がスルメのように味わい深くなるのを経の方が待っているようにも思いました。新井さんの本をさらに読んでみたくなりました。
ですので、読むたびに、その時々によって、受け止め方に違いが生まれます。発見もありますね。
「味わい深い」とお感じになるのも、あきさんご自身の感性との出会いによるものですね。
体験の深さ、多様さ、思考を重ねたあなたの感受性で、今一度も二度も三度も?読んでみてと書物は待っていてくれる。
そう思えてきます。
この度、そんなふうに思える一冊に出会えたことに感謝です。
私は読んでいないのですが、柳沢桂子さんの『生きて…』をご葬儀に朗読された方のお話をブログで拝読させていただきました。
荘厳な空気感、陶酔感の体験に、朗読、「言葉を発する」ことの力、意味なども思いました。
『捨ててこそ 空也』をよんでいたときで、あきさんの「十牛図」と朗読によるこの方の体験談などで、
かたくなった頭の中はいっぱいいっぱいに。
言葉って、本当に不思議ですね。本も、ブログもですが、私は読んでいると言葉が光る所があり、そこが心に響きます。ある言葉だったり、一節だったり。
言葉の方が自分の成長を見守ってくれているように思います。
柳沢桂子さんは、壮絶な病、しかも、認められない病を長年経験されています。「生きて…」の本は、私は読むと辛くなります。その病(脳脊髄液減少症)の患者さんの姿を重ねてしまうからです。起き上がる事が出来ない様々な苦しみがあるのに病とみなされない病でした。
『捨ててこそ 空也』は妹が読んで感動したようです。どこか、ブログで繋がるのも、このような本との出会いと同じようにご縁を感じます。感謝です。
コメントありがとうございました。