高鴨神社に参拝した際に出会った家族から葛城御歳神社と鴨都波神社を教えてもらいました。葛城御歳神社の次は、鴨都波神社です。
鴨都波神社は、土佐国造りについて書いた際に紹介していました。
鴨都波神社付近一帯は「鴨都波遺跡」という弥生時代中期の遺跡として知られ、当時の住居跡や土器、農具などが多数出土しており、古代より鴨氏がこの地に住み着いて農耕生活を始めていたようです。
奈良県のカツラギ地方には、出雲の人々が多く呼び集められ、タタラによる金属精錬技術なども広めたようです。また、出雲人が信じていたサイノカミ信仰もヤマトとその周辺に伝わったようです。
鴨都波神社は、第11世大田田根子の孫、大加茂都美命(おおかもずみのみこと)に勅を奉りて葛城のむら、加茂の地に奉斎されたのが始まりです。
葛城加茂社、下津加茂社とも称され全国の加茂(鴨)社の根源であるとありました。
事代主神は、奈良県桜井市にあります大神神社に祀られる大物主命の子にあたることから、大神神社の別宮とも称されているようです。
私たちは次の日に大神神社を参拝しました。
鴨都波神社の古い社名は「鴨都味波八重事代主命神社」であり、「鴨の水端(みずは)の神」と解され、鎮座地付近が葛城川と柳田川の合流点となり水に恵まれていたことから、元々は水の神を祀っていたとする説があるようです。
鴨都波神社の元のお名前の鴨都味波八重事代主命 については、神魂家 (富家) 出身の出雲王国8代目の副王少名彦が八重波津身🟰諡はコトシロヌシ (事代主)のお名前に似ているように思います。
大国主命を助けた少彦名神。出雲の最盛期を築くも、あっという間に常世に帰ってしまい、大国主命が嘆く話が神話にありますが、少彦名神は、出雲王国の話では事代主神でしたから、常世にかえる話しから、出雲王国の悲劇の八大目の王と副王の幽閉の話を思いました。神門家(のちの鴨氏)が、出雲からヤマトに移住した後に、悲劇の祖先を祀っているのかもしれません。
大物主神が、嘆き悲しむ大国主命に現れ励まします。出雲王国の話では、大物主神は、事代主とありました。
出雲王国の9代目王、富鳥鳴海(事代主長男)🟰9代目大国主が父の無念の死を嘆き悲しんだ時に八重波津身(8代目少彦名🟰事代主)が現れて励ましたのかも、と想像を膨らませました。
高鴨神社の主祭神であります「阿遅志貴高日子根命」は、御名、迦毛之大御神であり、死した神をも蘇らせることができるとても御神力の強い神様であると云われています。
神奈備山である大三輪山に向かって奈良に住むカモ一族は祈っていたようです。雲から出て(出雲)、日の出の神(カモ)の復活の祈りをヤマトの地で捧げたのかもしれません。
8代目出雲王国の王、八千矛の子がアジスキタカヒコでした。出雲全盛期を築いた大国主命と少彦名神を蘇らせる、祈る、そんな思いを高鴨神社と葛城御歳神社と鴨都波神社を参拝して感じました。こちらの3社は上鴨、中鴨、下鴨社と呼ばれます。
また、出雲8代目ヤチホコ(大国主命)とコトシロヌシ(少彦名)は、薬草の使用を普及させたと言われます。古事記には大国主が傷を負っウサギを治す話があります。因幡の白兎では、兎からの恩返しに大国主命は稲穂🌾と美しい奥さんを手に入れる話がありました。
地主神社ホームページ画像より
これは、九州に古代上陸した兎狭(うさ)の渡来人(宇佐の人)の傷を癒したのかなぁと考えています。
コトシロヌシの職名の少彦名は、古くから薬の神様の名で知られています。神農は古代中国の神ですが、大阪中央区道修町の神社で行われる神農祭は「薬祖講」の行事として大阪市無形文化財(民俗行事)に指定されているみたいです。
神農は農業だけでなく薬の神様でもありました。
「大阪の祭りはえべっさんに始まり神農さんで終わる」と言われるようですね。えべっさんは、えびす様。出雲王国の著書ではコトシロヌシであり、またスクナヒコナ神となります。
奈良の鴨都波神社でも、スクナヒコナ神は神農と共に祀られていました。太古、中国からも様々な薬草について学び広めたことをこちらの神社で感じました。
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