大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

猿猴捉月 白隠禅師の禅画

2024-05-17 07:53:00 | 神仏について

小さい頃は、夏休みになると高知市内から2時間以上かけて、母の実家にいきます。くねくね道で、必ず車に酔ってました。今は道が本当に良くなりました。

そんな山奥ですが、目の前に川幅も小さな四万十川が流れ、その川で遊ぶのが楽しみでした。水が冷たくて、綺麗です。

しかし、お盆になると、猿猴(えんこう)がでるから、と水遊びを禁止されていました。何もない田舎で、水遊びができないのは嫌だなぁと幼いながら感じていました。

お盆の時期、ご先祖様や故人がかえる時期は水の事故が増える、、彼岸と此岸が重なる時期は、気をつけなさいという戒めに、夏酷暑の土佐では猿猴という妖怪伝説が残るのかなと今は思います。



Wikipediaより

猿猴は水にいる妖怪だから、河童なのかなぁ、と思っていましたが、本来、猿猴とは、猿と猴(マカク)の総称みたいですね。


マカク。笑


ところで、この猿猴は、捉月とあわさり猿が井戸に映った月を取ろうとして水におぼれたという故事、猿猴捉月 (えんこうそくげつ)という話があります。


「身分不相応な大望を抱いて破滅すること」のたとえ、とされています。

白隠禅師の描く禅画をみると、この猿猴捉月の様子が描かれています。



白隠禅師の描く猿猴の絵はとても可愛いです。この絵を見た時に、身分不相応な大望を抱くギラギラした人が自業自得のように破滅するイメージでは全くなく、

本当に可愛い無邪気にみえる赤子のような純粋な心をもったものが一瞬にして、心に映った幻により破滅することはある、そんな事のようにも思いました。


白隠禅師のような、生まれながらに神童のような人も、純粋に仏道を追い求め、修行をして、心を病み「禅」の病になります。座禅修行が落とし穴になりかけてしまうのです。


水に映った月🌕って一体何の事かなぁと考えました。月とは、にくづき。身体かな。

猿猴は、鉛汞(エンコウ)と音が同じです。


鉛汞は、錬丹術の中に出てくる言葉です。

汞は水銀。鉛の中には水銀があり、そこから丹薬をつくり不老不死や身を軽くし空を飛んだり、鬼神を使役し超能力をもつ神仙になるため、昔の中国で盛んに試みられた術が錬丹術です。


「みかけ」の丹薬を本当に作ろうとして、不老不死を願い、水銀中毒になり命(肉体🟰月)を失ってしまった話が残ります。

不老不死の丹薬を求め秦の始皇帝は日本に徐福を送ります。

日本の地下にある水銀鉱脈の「エネルギー」は実際、霊的なものがありそうですが、神社などを朱くする丹(朱)を作るため、日本でも実際に鉛に火をかけ、水銀を抽出していました。命を削る行為だとは知らずに。


鉛汞は、「みかけ」ではなくて、欲心やら、我を削ぎ落とし、肉体(月🟰にくづき)をつかいながらも、肉体をもって生きるこの世を心が幻だと静かに諦観すること、また、身体の中で無為自然に練られるみえない尊い何か(みえない丹)をつかい、水と火、陰陽☯️を交わらせることなのかな、と感じます。それは肉体があるからこそ、できることのようにも思います。


みかけや上部に捉われる「皮肉」を、この猿猴捉月の絵からは感じ、さらに鉛汞の裏の響きに様々なもっと奥の意味も感じます。禅画は観る人により感じ方はそれぞれだとは思いますが、、、。


水に映る月、水は「見ず」、月は「肉体🟰上部」だとしたら、可愛い猿猴の姿で描かれる赤子のような純粋な穢れのなさそうな心の中にも生まれる、一瞬の「欲」を幻と直観できるか、一瞬でも執着が生まれないかどうか、最後まで気をつけ反省し続けること、


もしかしたら、

この無邪気な姿は、「悟りたい」と一心不乱に座禅をして病までなった時の白隠禅師のピュアすぎるかつてのご自身であり、


無理を加えない先天の坐に切り替えて、「悟り」の境地に至った後に、禅の奥義を身体で体得したがゆえに、「皮肉」として描いたものかも、なんて空想しました。


先天坐の深い鎮まり還る静寂の中、月(肉体)は、「一」、ワンネスに返り、「月(身体)」にみえない霊なる線「I」が丹を貫き、ご神仏の「ご用」をする器となるのかなとも思います。その体は、用と同化して、私は公となるイメージです。


白隠禅師の肉体が亡きあとも、その教えの神髄、心髄、真髄は永遠に不滅であるのは、坐と禅を通して「一」となって生きた白隠禅師の命が不滅だからかなと思いました。



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