相対立するものは常に闘いの中にある
平和は戦いの否定ではない
悪を否定したからといって
有徳になるものではない。
醜いものを否定したからといって
美しいものになるだろうか。
何ごとであれ、
それを否定すること自体が
闘いを造り出すものである。
美は決して対立の否定の結果ではない。
平和は戦争の否定ではない。
なぜなら、
戦争はわれわれ自身の投影だからである。
理想主義者は理想に追随しない人々よりも葛藤を引き起こしているのではなかろうか。
理想はものごとよりも人間を分割しているのが事実である。
右に傾いている人も左に傾いている人も、各々の観念に追随しているだけのことではないのか。
闘い、戦争、憎しみに導いているのは、
人が自分の考えの方が他の者の考えよりも重大であると思っているからである。
観念なるものが何であり、
それがいかにしてわれわれを分割するかを知って
初めて和解が可能である。
われわれは、何らかのグループにしがみつくが、それは安全でありたいからである。
この意識がわれわれにある安全感を与える。
しかし、人々の何らかのグループへの帰属意識は、分離と崩壊と戦争とを意味するものであって、そこには何らの安全もない。
右にしろにしろ、自分のイデオロギーをすべての人々に信じてもらうというのが、あらゆるイデオロギー論者の夢である。
しかし、そんなことは不可能である。
ここまで
なんだか、聖者のお言葉は重みがありますね。
自分の意見を否定されると嫌なもんだし、自分は平和を望んで戦争は悪だと思ってました。
しかし、その戦争でさえ自分の投影だとあります。
和解には他者を否定から入ってはイケナイのですね。
否定されても、受容する、右の頬をうたれたら、左の頬も差し出す。キリスト。
私には難しい。
右の頬を打たれたら、まず私は逃げますね。
手を挙げるような人が周りにいなくて良かった。😮💨
私の右の頬をもし打つ人がいたとしたら、その痛み(心の痛みを含め)が治り癒えるまでその人が大嫌いのままだろうなぁと思います。
罪を憎んで人を憎まず。
聖人は凄いですね。どこまでも、気づきなさいと言われている感じがします。
キリストは亡くなる時、誰もが憎むような相手に対し、主に許しを願います。
彼らは自分のしている事を気づいていないのですと。
戦争も、根っこには思いと思いのぶつかりがあり、どちらも自分は正しいと思ってやっているのでしょうね。
さらに、マスメディアにより色付けされた報道により、思い込まされたイメージが周りにまで広がり出来上がってしまう。
その「思いゴミ」の意識は、重い駒のように、重いと重いの対立の戦いに勢いをつけ、ただ有限の碁盤の目の中にいることも気付かず、まるで囲碁の石やチェスの駒♟️のように白黒勢力範囲をある意図により無限に拡げていこうと試みます。
そして、両者共にグループを広げ、どちらかを廃絶させるか、どちらもゲームオーバーになるまで、自分の正当性を主張し続けます。限りある命、こんな風に費やしながらグループへの帰属意識は、自分に正しさへの安心感と「絶対」正しいという意識をさらに加速させます。。
しかし、正邪の戦いや他者への否定意識や他者を殺そうとする意識は、地球には負の意識として蓄積され、それは地球が引き受けて一生懸命無言で浄化するしかないものなのかもですね。地球は、真逆の他を活かす、生かす生命体だから。
様々な問題に直面し、善悪白黒つけそうになったら、自分の中にある分離意識を気付きなさい、って言われている感じです。
それがまさにゴミ意識、地球に重い波動となり負担をかけてしまっているかも。
なら、その重いは手放したらどうなるかな、、。
そして、思考や心を鎮めると、
まるで今までの濁り水のような渦が、静かに放っておくことにより、次第に重いは沈殿し純粋に軽くなった真水と泥に分かれます。
泥は沈むしかない。
放っておくと、静かの中から誠があらわれ誰も否定できない真実を明らか見せてくれるのかも。
キリストのヨーガで強調されていたのが、静寂。そして、自我を静かな中で否定せず徹見することでした。自我が泥になって沈むまで時間はかかるけれど。
学びの深い本でした。
どうでもよくなるのは、絶望であるのみ。
聖い人は、歌う。
地獄を知る者は、達観する。
それでも、人には創造力がある。
人は想像する。
故に、未来を明らかにする。
汝、明道を歩み、日々、明暗を照らすべし。
おはようございます。
よくなれば、善悪など些細なこと。
そうですね。
どこを切り取ってみるかで善悪はコロコロ
変わるし、
静かに坐してその中で
聖も地獄も、全て混ざり合いながらも
良くなる道❣️
明らかにする道❣️
と歩んでいきたいですね。
いつも、貴重なお話ありがとうございます。