明るい心で、性を見る。
性とは仏性、真の性で、心を統べる。
文字で書いてみると、わかるようなわからないような。
この「心」は、明るい心や暗い心、色んな心がひとりの人の中にもあって、その心次第で仏性が見えたり見えなかったり、、
ということではない気がしてします。
見性は、自らの本性を見ることだとしたら、
自分が何者かわかることで、
心に自我がなくなれば、性が自然にあらわになる、という感じかなと思っています。
明らかな心とは、このあらわになった心で、
最初はほんのりとした色がついているのかもなとも思いますが、ほんのりついた色も、究極は透明になるのかな、、。
区別のない広い大空のような心。普く光る太陽、全てを包む大空。遮らない心。
白隠禅師は、
自分のために修行するのを「上求菩提」といい、
他者を救済するのを「下化衆生」 と説きました。
両手を叩けば音がするが、隻手(せきしゅ/片手)ではどんな音がするか聞いて来い。
白隠禅師の絵
これは、白隠禅師が語った言葉です。
何も響かない。。。何も鳴らない。かな。仏性を求めつつ、周りを惜しみなく教化する。自利(智慧門)と利他(慈悲門)を並行して行うのが菩薩行。
まだまだ自分は悟っておらず学び中なので何もしない、とか、宗教や教義は、それを与えられた自分たちだけのもの、という意識がもしあるなら、
それは自利を自利のままにしていたり、自利に優越を感じていることかもしれません。良いものは、それを普く広めてこそ、大空の心かもしれないなと最近感じています。
様々な教えは、信者にとっては格別なのかもしれませんが、格別であっても、格や別の言葉は、どこか、区別があるような気もしています。
格別だという心がある以上、学びに執着が生まれ、自我を気づかせる何かが起こります。反省は学びの中から生まれるとはいえ、心が曇ると自分の内にあると信じていた「空」は、空ではなく、雲に覆われた我だったとわかります。そうして、気づいた我を見、その我見を破りつづける過程が、実生活に根差した修行かもです。
煩悩の根っこを、どんどん抜いていくと、ある時、その根っこさえ生まれようのない奥の奥に辿りつき、そこは、全ての命の根をささえる大地の土のようでもあり、また、雲の上に広がる大空のようでもあり、全てを浄化し循環する水や大海のようでもあり、行きつく先は自然かな。自他の区別がないところ。それこそが明るい心なのかもしれません。
自分という実体の心の癖をしっかり見つめ、雑草の如く簡単に根をはるそれらを取り除きつつ、平行して外に向かって今の自分でも出来ることをこつこつとしていく。
どんどんと明るくなり洗われた心により、仏性が顕われると、それは明らかに行動にもあらわれるのかもなと感じています。
明心見性。
内奥にある心の目、「◯に・」は、生きた心(性)が顕に開くことかなとも感じています。生きて生きること。命を生かすことかな。
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