紹介・「科学的社会主義を学ぶ」不破哲三著・新日本出版社 - 愛と情熱の革命戦記
上記のリンクをたどればお分かりですが、一般法則論者と名乗る御仁がもはや笑うしかないコメントをよこしてきました。
コメントの表題に「科学的社会主義は自然科学とは無縁です」とし、あれこれ書いていますが、科学的社会主義を自然科学とは無縁と言い切るようでは、「一般法則論者」と名乗る御仁が科学的社会主義の「か」の字も知らず、思い込みに始まり思い込みに終わっているということを自ら告白しているというほかありません。そんなあなたに「マルクス主義政党のいうことを丸暗記する程度の教養しか今現在お持ちではないようなので」と言われる筋合いはございませんこと。。。オホホ。。。
科学的社会主義と自然科学とは、縁がないどころか極めて親和性が高いです。ここの記事でこのことを若干論証します。
科学的社会主義の世界観(世界をどう見るか)の特質として弁証法的唯物論(唯物弁証法ともいう)があります。これは、世の中の物事は、連関しあっていて運動し、全ては生成、発展、消滅の過程にあるという見方です。そして、物事には歴史があり、時間の流れがあり、そのなかで物事を相対化して見るいうのが弁証法のものの見方の特質の一つです。また、弁証法的唯物論では、矛盾を物質の運動の契機となる要素であると考えています。誤解のないように申し上げておきますが、ここで使っている「矛盾」という言葉はつじつまが合わないという意味ではありません。物質が生成し、発展し、消滅していく過程を歩む契機となる事柄を「矛盾」といっています。ここでは「矛盾」という言葉を哲学の用語として使用しており、日常生活の言葉の意味とは切り離してください。
ここで少しまとめておきましょう。
弁証法の特質
○世界における物質は相互に連関していてそのなかで物事を認識します。
○物質を、静止したものとしてではなく、変化のなかで捉えます。
○一見相容れない対立したようなことが一つの事象の中で相互に働きかけあい、このことによって物質が運動することを捉えます。
○対立物の相互浸透
まずは、物質相互の連関について。
世界において物質(ここで言う物質とは人間の意識とは独立して客観的に存在しているもの全てを指します。)は、相互に関連しあいながら存在して運動しています。人の身体を考えれば分かりやすいかもしれません。人間の身体には、脳、心臓、胃、腸、肝臓、手、足、筋肉、骨など他にもさまざまな器官が存在しています。それぞれ器官には固有の役割がありますが、その固有の役割を果たしえるのは、人間の身体の中でそれぞれの器官が相互につながりあっているからこそであります。例えば、自己などで私の腕が切り落とされて身体から切り離されてしまったとしたら同でしょうか。もはや、そのような腕は腕としての機能を果たさなくなります。このことは、他の器官についても同じようなことがいえます。それぞれ、固有の役割がありながらつながりあっている、連関しあっていることが分かります。
では、例えるものを変えて、今度は宇宙まで話を広げてみましょう。私たちが住んでいる地球が太陽の周りをおおむね一定の距離を保ちながら公転しているのはなぜでしょうか。私は、物理学の専門家ではないので詳細なことは述べられませんが、太陽系の惑星の運動は、太陽はもちろん、太陽の周囲を公転している数々の惑星の重力が相互に影響しあっていること抜きにしては考えられません。お互いが引き合い、あるいは星の位置関係によりはじきあうことが太陽系の中で微妙なバランスをとって存在しています。だからこそ、私たちが住んでいる地球だけではなく他の惑星の重力がお互いに影響しあっている、もちろん太陽の重力の役割が大きいわけですが、からこそ一つの惑星が姿を保っていられるわけです。それぞれの星は一見バラバラに存在しているように見えても真実はお互いに連関し影響しあっているわけです。この中身に関しては、私なんかより物理学者や天文学者のほうがよく知っているでしょう。
世界において、物質は絶えず変化しています。物質が未来永劫同じ状態ということはありえません。世界において物質はすべて生成、発展、消滅の過程にあります。そして、ある物質の消滅はたんなる消滅ではなく次の生成へと結びついていきます。
例えば、私自身のことで言えば、私が今から34年前にこの世に生まれたわけですが、いまの姿で生まれてきたわけではありません。当たり前ですね。良くも悪くも、生まれてから成長して成人して今に至っているわけです。当然、私自身やがては年老いて死にます。死ねば、私という自我の存在は消滅します。私の肉体が生命体としての活動を終えてしまった後、たんなる消滅かといえばそうではありません。私の身体を作っている物質は世界の中で循環していき何らかの形で次の生成、発展、消滅をつくる糧となります。世界において、物質はこの流れに乗っています。
例によって、又宇宙にまで話を広げます。
いまから、100億年ほど前にビッグバンによって私たちの住む宇宙が生まれたといわれいます。この問題についてはさまざまな議論があります。ただ、私たちの住む宇宙にも歴史があり、その中で発展があったことだけは確かなことです。原始の宇宙では高密度、高温で存在するのは素粒子という状態でした。膨張するなかで温度が下がり素粒子同士の結合が始まるなどの仮定を経て、原子が誕生するようになり、次第に原始的な恒星、銀河というのが生じてくるようになります。恒星において核融合反応を繰り返しヘリウムが生成し、寿命を迎えた星は超新星爆発をして物質を宇宙に放散していきます。宇宙に放散した物質を基礎にして新たな星が宇宙に誕生します。こういったことを、繰り返しながらさまざまな物質が宇宙に生まれていきます。こうして私たちの住んでいる宇宙の形が出来上がっていきます。
人間の身体から宇宙に至るまで物質は全て生成、発展、消滅の過程にあります。
次に対立物の相互浸透について。
物質の運動は、相容れない対立した要素がひとつの事象の中で相互に働きかけあい浸透しあうことによって成り立っています。身近で分かりやすい例が、やはり人間、そのほか生物の身体です。生まれる(生成)ということと死ぬ(消滅)ということとはまるで相容れない要素です。しかし、実際のところ人間など多細胞生物は身体の中で生まれるということと死ぬということとが絶えず行なわれています。私がいまこうしてブログの記事を執筆している現在、私の身体を構成する細胞レベルではやはり細胞が生まれながら同時に死ぬ細胞があり、入れ替わっています。だからこそ、私が私自身としての生命活動を維持できるわけです。まさに、生まれる(生成)と死ぬ(消滅)が私の身体の中で相互に浸透しあっているのです。細胞レベルまで考えれば、私は、生まれると同時に死んでいっているのです。これが、止まったら新陳代謝がないということですからね。
それではまたまた、視点をユニバースに広げてみましょう。
人間の寿命というのを基準にするととてつもなく気の遠い時間にはなりますが、何百億年という宇宙の歴史のなかでは何十万年というのはそれほどの時間ではありません。そう考えたとき、私たちの住む宇宙においては、絶えず星が生まれては死んでいっています。死んだ星は死ぬ瞬間に超新星爆発という形で星間物質を放出して新たな星を作る礎を築きます。こうした事柄は、宇宙のいろいろなところで絶えず発生しています。ビッグバン以降、私たちの住む宇宙のなかでは星の誕生と死ということとが絶えず生じていています。宇宙全体という大きな枠組みのなかで、生まれる(生成)、死ぬ(消滅)という相容れないことが絶えずお互いに関係しあい、浸透しています。宇宙の歴史はこうして作られています。私たちの住んでいる宇宙の姿は、星の誕生と死というのが大きな枠組みのなかで絶えず起きているからこそ存在しています。
このようにして考えると、弁証法というものの見方は、決して特殊な認識の仕方ではなくもはや常識的認識の仕方です。
マルクス、エンゲルスの少し前の時代にヘーゲルという哲学者が弁証法という認識論を再びヨーロッパに取り上げるようになりました。この背景には、生物学の研究が進んでいったことがあります。細胞というものを発見し、細胞というのが絶えず分裂して、生まれて死んでいっている、こういう新陳代謝によって生命体の活動が維持されていることが解明されるようになって行きました。こういう時代背景があって弁証法という認識の仕方が自然科学において再び重要視されるようになりました。
ヘーゲル、マルクス、エンゲルスが生きていた時代より現在の科学水準はもっと発展しています。今では、宇宙にも歴史があることが解明されています。科学的社会主義の認識論のなかの弁証法というのは、科学の発展が背景にあり、今となっては科学的社会主義者でなくとも、科学的なものの見方をすれば、結局弁証法のものの見方をせざるを得ないところまで科学が発展しています。
今後も自然科学の発展は弁証法を豊かにしますし、その帰結として科学的社会主義の世界観は発展して豊かになっていきます。
科学的社会主義と自然科学は、縁がないどころか極めて縁が深く、親和性が高いのです。蛇足ですが、日本共産党中央委員会委員長、議長を歴任して現在党中央委員会付属社会科学研究所所長を務めている不破哲三さんの出身学部が理学部であることは、決して偶然とはいえないと私は考えています。
一般法則論者と名乗る御仁よ、科学的社会主義と自然科学は縁がないという根拠のない言いがかりはやめていただきたいものです。
一般法則論者は、神という人間の創造の産物を「存在する」ということを証明すると証して入れ子構造の図解が云々と言葉遊びに終始して、このような言葉遊びをすれば人間の創造の産物である神の存在を証明できると思い込んでいます。なんという哀れなことでしょうか。
それにしても一般法則論者のブログを拝見してすぐに分かったことはこのブログの管理人はどこぞの反動的俗物だということです。貧乏人根性として列記しているものを見れば、「あればあるだけ使ってしまう→政治家だとバラマキ福祉に走る」と書いてある。だいたい、貧困を防ぐために必要な予算を組み立てて施策を講じることをバラマキ福祉という見方しかできないとは、もはや笑うしかありません。
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/e/fbd7889fe9ec3304a743d9f1df5a63c5
他にも、「・全ての金持ちは悪いことをして金を稼いでいるので高い税金をかけてその富を取り上げるのは正義に叶うと勝手に決めている/こう主張する人に賛同する」と累進課税制度の意義を曲解して、大資本や大資産家に社会的責任を果たすべきことを放棄する手助けをして貧困拡大に、一般法則論者は奉仕しているのであります。それから、貧乏人根性としてこの御仁が列挙していることは、ぎりぎりの生活状態ではしたくてもできないことです。教養を高めることを含めた最低生計費に収入が満たなければ、自己啓発なるものに投資できないし、将来に備えた貯蓄をすることもできません。そういったことを、まるで考慮しないで貧乏人根性としてあれこれのことを列挙して悪罵するのは、「自己責任」論を振りまく新自由主義と通じるものがあります。
科学的社会主義に的外れな攻撃を仕掛けてきた一般法則論者と名乗る御仁が信じる神は、独占資本の利益に奉仕して貧困拡大をもたらすために存在している神であります。
ならば、この場であえて申し上げましょう。
大資本、大資産家の利益ばかりに奉仕して
貧困拡大に奉仕する神なら
こんな神は殺すにかぎる!!