愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

ゲバラとノーモア広島・長崎

2008年08月10日 05時35分09秒 | 現代に活きる Che Guevara の志
 本当は、この記事は8月9日中に書きたかったが飲み会があったのでそうもいかなかった。

 広島と長崎に原子爆弾が投下されて、もう63回目の夏を迎えた。核兵器と人類とが共存し得ないことは、広島と長崎が事実を以て示している。というのは、原子爆弾のような核兵器というのは、戦争中だけでなく戦争が終わって半世紀以上過ぎた現在でも被爆者を放射能障害で苦しめているからである。現在、被爆者健康手帳を持っている人は、243,692人である。被爆者手帳を所持している人の平均年齢は75.1歳と高齢化が進んでいる。

 さて、本題であるエルネスト・チェ・ゲバラと原子爆弾にまつわるエピソードをここで紹介しよう。

 キューバ革命政権は1959年に成立した。この年にチェ・ゲバラは来日した(7月15日羽田空港到着)。当時の彼の来日目的はキューバ再建の施策を他国から学ぼうということであった。彼は日本に来るまでにエジプト、シリア、スリランカ、インド、ミャンマーをまわっていた。日本へのチェ・ゲバラの関心事は、日本の経済高度成長を支える工業力にあった。キューバは、スペインから独立したあともアメリカの従属国になっており、アメリカ資本の収奪もあいまって、サトウキビの栽培・砂糖の輸出に頼るというモノカルチャ経済の状態にあった。砂糖の輸出に頼るばかりでは、キューバの真の自立はない、これはチェ・ゲバラ個人だけでなく革命政権自身の問題意識であった。同じ島国として一歩先に成長の道を進んでいた日本から学ぶことがたくさんあるとチェ・ゲバラは考えていた。

 キューバの在日大使館は日本の外務省との打ち合わせで東京都内の無名兵士の墓を詣でることをスケジュールとして組んでいた。だが、チェ・・ゲバラは、「無名兵士といったら、アジアで数百万人を殺した帝国主義の軍隊の人たちのことではないか、こういうところへ僕は行くわけにはいかない」と断り、広島行きを主張した。広島行きは、スケジュールにはなかったがチェ・ゲバラは夜行列車に乗って自費で広島へ行った。彼は、平和記念公園の慰霊碑に献花し、正面のドームを遠望する写真を撮影した。彼は、その後の論文や演説などでしばしば広島に言及している。フィデル・カストロにも広島へ一度は行くべきだとゲバラは語っている。チェ・ゲバラは、平和記念公園の慰霊碑に献花しているとき案内役に「こんなにされてなお、君たちはアメリカに言いなりになるのか?」と語った。

 発展途上国の人の中には、ロシア戦争のエピソードなどを持ち上げて欧米列強と対等に渡り合ったアジアの国と見る人が少なくない。そのようななか、日本が犯した侵略戦争の罪をきちんと見据え、複眼的に物事を見て本質を見抜くチェ・ゲバラの視野の広さは卓越したものがあった。

 なお、フィデル・カストロは1959年と2003年に日本を訪れている。2003年にカストロが来日したとき、盟友チェ・ゲバラとの約束を忘れていなかった。カストロは、原爆慰霊碑に献花して資料館をまわった。彼にとってまったく罪のない広島と長崎の犠牲者に哀悼の意を表することは、長年の願いであった。

 この記事を書くときには「元気が出るゲバラ語録(リイド文庫)」及び、現代企画室「小さな国・そこに生きる人びとの視点で見る世界カストロの訪日報道を読む」というネット上の記事を参考にした。


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