陽だまりのねごと

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痛みに耐えて手渡しする最後のボーナス

2006-07-15 07:27:27 | 終末医療
採用されて4ヶ月には満たないが私にも支給された。
満額もらっても公務員には満たない額だろうが、出るだけありがたい。

いまどき現金。
しかも経営者から手渡し。

現金を数えて袋詰めの手間はたいへんだろうが、
振込みよりも貰った気がする。

「ありがとうございます」

うやうやしく貰ったけど、
経営者は

「う・」

と言ったかな?


受け取りながら、夫の最後の夏のボーナスを思い出した。
夫は小さな小さな小さな会社の雇われ社長だった。
お盆休み前にボーナス支給と決まっていた。

ガンの再発。
大腿骨に転移。
自力歩行も長時間座る事も困難だった。
抗がん剤の副作用で頭髪は全部抜け落ちていた。

効くか効かないか分からないがとりあえずと言う
抗がん剤投与が済んで、
会社は永遠の自宅療養中。

会社に出ないが、療養手当てだったのか?
額は通常の7割くらいだったようにも思うが、
4月から出勤していない8月も給与は貰っていたように思う。
夫の末期の微細な記憶はだんだん落ちてゆく。

2001年8月13日だったか?
自分には働いていないにボーナスは出せない。
働いていない自分の分まで皆が稼いでくれた。
皆のおかげで自分の給与があるのだから、
会社に行って、
皆にボーナスを手渡したいと言い出した。

部屋のすぐ外にあるトイレまでかろうじで伝い歩き。
行ける状態には思えないが、
どうしても行きたいのだろう。

外出用の服を着る事も簡単ではなかった。
ソックスも自分ではもう履けなかった。
靴はどうやって履かせたか記憶にない。

玄関にある2段の段を降りるのに
痛みで顔がゆがんだ。
当事まだメジャーではなかった低反発クッションを車のシートに引いた。
帽子を被って頭髪のない頭を隠した。

会社まで約1時間の道程。
道路のデコボコのバウンドで顔がゆがむ。
ハンドルを持つ私は細心の注意。
ゆったりした夫の車を運転出来れば苦痛はすくなかろうと思ったが
情けない事に1300CCの自分のでないと運転の自信がなかった。

会社近くの小さな酒屋に寄った。
ビールやジュースと乾き物のつまみを買って欲しいと言う。
おつかれさまの乾杯をするのだと。

会社へは松葉杖でなんとか入った。
会社に届いたお中元はみんなでくじ引きをして、
持って帰ってもらうのだと、私にクジ作りを命じた。

仕事を終えて三々五々10人足らずの従業員さんが
帰って来る。
おもざしの変った夫の顔を見て
みんな一応のギョとされる。
会社内には不似合いな頭を覆う野球帽風キャップの事には
誰も触れない。

夫はいつもの椅子に
車から持って来た低反発クッションを敷いて座って動かない。
向こうから人が寄ってきて、あいさつを交わす。

松葉杖にすがって立ち上がり
ひとりづつ名前を呼んで
賞与明細の入った袋を手渡した。

なんだか表彰状授与みたい。
お互いちょっとくすぐったそう。

「ありがとう。おつかれさま。」

乾杯して、くじ引き。
ボーナスの額の少なさの穴埋めにも見えてしまうが
大の大人が結構うれしそうに
大小こもごものお中元の包みの中を想像して軽口が飛び交っていた。

自分宛てに貰った物だけれど、会社が貰ったものだと
持って帰る事をしない夫だった。
生ものは事務所の居る人で分けて持って帰ってもらったりしていた。

会社への滞在は約1時間。
往復の時間を入れて合計3時間。
帰ったら精根尽き果てた感じでベットに倒れこんだ。

寝ても痛みは体を襲っている。
経口モルヒネのMSコンチンを出していることで主治医は痛くないと思っている。
ボルタレンの座薬も効いていると思っている。

ガンを切り取る手術には長けても
ガンの疼痛緩和には、素人の医師なのだ。

この後、一週間を待たずに再入院。
痛みに鈍感な救急総合病院の一般病棟でつきそい
今思えば、
半狂乱の私がホスピスへの転院を強行した。

緩和ケア医は転院後ただちに24時間持続皮下注射を夫に施した。
モルヒネが微調整されながら体に切れることなく入ってゆく。
夫のずっと刻まれ続けていた眉間のシワが消えた。

この皮下注射があれば、
最後のボーナス支給出勤はどんなにか楽だったろうと
後になって思う。

緩和ケア病棟に10日あまり、9月22日に永眠。


この4月の介護保険改正で
40歳以上の末期ガン患者にも介護保険が適応されるようになった。
働き盛りの末期ガンは
学費のかさむ子供が居る時期でもある。
患者自身がお金の掛ること遠慮する。

自宅で最後までをと私は思ったが体制が整っていなかった。
最期を医療から遠い場所ではと夫が不安がった。
医療のお世話になるためには
家を出て病院に行くしか手段はなかった。
最後に松葉杖で家を出る時、
振り返って夫は言った。

『もう帰ることはないね。』

在宅ホスピスが少しづつ可能になってきている。
誰でもが望むのは自宅で家族に見守られてではないだろうか。

すべての治療が終って、
成す術なく死を待つための再入院までのわずかな在宅期間。
私は在宅に向けて、医療用ベットやら手すりやら、
病床の夫を気にしながら駆けずり回って準備した。
相談する人もなかった。
地域で誰もが頼る総合病院には
信じられない事にソーシャルワーカーを置いていなかった。
誰かに相談しようにも窓口がなかった。
相談窓口は医療費のみに対応できる事務方だった。
痛みに耐える夫をどうにか楽に、
一日でも家に長く居させてあげたい。

そんなこんな思いをした事が
今の仕事に就いた理由のひとつらしい。
これから末期ガンの方のお世話があるかもしれない。