ヴァン・ダイク画 ケネルン・ディグビィ( Van Dyck: Sir Kenelm Digby )
彼は、ジェイムズⅠ世の推挙を受けてエドムンド・ボルトン( Edomund Bolton、1575?–1633? 英国歴史家、詩人)が1617年に計画したロイヤルアカデミィのメンバーになります。( ロバート・セシルは1612年に既に亡くなり、彼の影響から抜け出たジェイムズⅠ世がディグビィを推挙したのではと私は勝手に思い込んでいるのですが、外れているかもしれません ) 1618年Glosucester Hall でThomas Allenから教えを受け、1620—1623年の間をヨーロッパで過ごし、1624年ジェイムズⅠ世がケンブリッジを訪れた際に彼はCambridge M.A.になっています。
ピーター・オリバー画 Venetia Stanley, lady Digby, aged 19
ベネティア・アナスターシャ・ディグビィ( Venetia Anastasia Digby、 旧姓Stanley;12/1600-5/1/1633 ) は、廷臣 ( 女王、王、そのほかの支配階級者に仕え、アドバイスを行う者、日本語では腰巾着とも訳されています ) の一人で、極めて美しいことで有名な女性でした。
祖父は第7代ノーサンバランド伯爵トマス・パーシー( Thomas Percy, 1st or 7th Earl of Northumberland, 1528-8/22/1572, イングランド北部のカトリック貴族でエリザベスⅠ世のプロテスタント化政策に反対し、1569年に同じ北部カトリック貴族の第6代ウェストモーランド伯爵チャールズ・ネヴィルとともに北部諸侯の乱を起こしたが失敗。1572年、大逆罪で処刑された。処刑から300年以上経た5/3/1895に教皇レオ13世により列福されました。パーシーの次女ルーシー・パーシーとサー・エドワード・スタンリーの間の三女に当たります。
1625年Venetia Stanley ( December 1600 – 1 May 1633 ) と結婚。ジェイムズⅠ世の英国枢密院のメンバーとなります。このとき、ローマンカトリックであることが政府役人として妨げになると判断し、英国国教会の信徒に転向。1628年私掠船の船長となり、いくつかの手柄を立てるのです。
1/18ジブラルタルでスペインとフランドルの船を捕獲。2/5—3/27アルジェに錨を下ろし、----船員が病気になったためだったが----英国船舶にとって有益なる約束ごとを取り決めます。マジョルカでオランダ船を襲い、その他勇敢なる行ないで、フランス及びヴェネチアの船対しイスケンデルの港においても6/11完璧なる戦いを行うのです。
イギリスに戻り海軍司令官となり、後にトリニティハウスの総司令官となります。妻が、1633年に急死。臨終の肖像画家であるヴァン/ダイクそれにベンジョンソンには称徳文を依頼。彼は悲しみと王による検死の命令に打ちのめされます。Gresham College に隠遁し、科学実験とカトリック信仰で悲しみを忘れようとするのです。
ディグビィはこの後も大波乱に満ちた人生を送るのですが、このあたりでディグビィについては切り上げ、本題(不慮の死を遂げた妻のお話し)へと進もうと思います。