Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ダマスクローズ 86

2020年07月18日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

“ダマスクローズをさがして50 ”と” 51” でダマスクローズの絵を引用しました。絵の下には、次のような薔薇の特性が書かれていました。「薔薇;性質;寒の一度、乾の三度。新鮮な時が一番香りがよい。効果;感情の高ぶり。樟脳を一緒に摂ると効果がある。」これが体液説を元にした健康維持方法です。残念ながら西ヨーロッパでは、この絵を持つことがステイタスを示す手段となっただけで、ごく一部の貴族を除いては日々の生活に生かすところまでには至りませんでした。しかし、ダマスクローズと密接な関係を持つ“ユナニ医学”は西洋とイスラムを結びつける大切な試料です。詳しく調べることにしました。

    

            Chirurgie des Ilkhani de Sharaf al-Dîn ibn 'Alî ibn al 

手術に関する論文 Charaf ed-Din、1465、BNF http://histoirepharmacie.free.fr/main02-02.htm

ユナニ※医学はヒポクラテスとガレノスの考えをもとにしています。古代ローマ時代に書かれたガレノスは医学書の中で「薔薇」を扱ってはいませんが、ヒポクラテスは多量のと言ってもいいほど薔薇の記述が多いのです。何故彼らの考えを引き継いだユナニ医学書に「薔薇」の記述がみられないのでしょうか。 いや、ガレノスだけではありません。ギリシャ時代以降の書物には”薔薇”の記述を見つけることはできませんでした。どうしてでしょうか。

       

※ ユナニ

ペルシャ人が、最初に接触を持ったのがアナトリア半島(小アジア西岸)のギリシャ人だったのでギリシャ人全体をイオニア人と呼び、その呼び名がインドなど東方に広まりました。ギリシャ人のことをトルコ語ではYunan、さらに現代ペルシャ語ではギリシャのことをYūnānと呼びます。                    

          

https://history.wikireading.ru/76579  Kitâb al-Diryâq: Thériaque de Paris.: Bibliothèque Nationale de France. Ms. Arabe 2964. (Iran?, 1199) 

ガレノスの著作に擬せた『(解毒薬方)※』(Kitāb al-Diryāq:テリアカ)の写本(1200年頃)パリ写本

 

※解毒剤の本とも呼ばれるテリアカ(Kitâbal-Diryâq)は、匿名の著者によって書かれた薬理学のイラスト入り論文です。 1199年の日付で、現在も保存されている最古のアラビア語写本の1つで、フランス国立図書館に収められたいます。長い間、有名な医者クロードガリエン(Claude Galien , 129-200 / 216)の著であると言われてきたのですがそうではないことが分かったので、ガレノスの著作に擬せたとの説明があります。

  

Ms Sup Turc 693 fol.46v Cauterisation of leprosy lesions, 1466  

Charaf-ed-Din Ms Sup Turc 693 fol.46vハンセン病病変の焼灼.

上の絵は説明にあるとおり、ハンセン病で出来た瘤状の小結節を焼灼しているのですが、傷口が化膿することが多く、何の効果も無い治療方法でした。

 

解剖学に関しては、イスラム文化圏では、宗教的な制約で解剖が行われなかったので、ガレノスの誤りは修正されませんでした。外科は宋の解剖学の影響もあったのですが、ガレノス医学をそのまま維持しほとんど発展しませんでした。手術はメスでなく焼灼に使う焼いた鉄の器具で切開を行ったため、術後感染症をおこし、死亡する患者が後を絶ちませんでした。これは、ユナニ医学を取り入れた中世ヨーロッパでも同様です。

 

10世紀から11世紀にかけて、アラビアでは多くの医学書が書かれました。アリー アッタバーリーやアル ラージー(Rhazes, 864-930)などによって、その地方の医学とインドやギリシャ, ローマの医学が融合し、批判を加えつつ進化し、「ユナニ医学」として親しまれました。

さらにイブン スィーナー(Avicenna, 980-1307)は、ガレノスの理論を継承し、時には批判を加えながらも発展させました。研究していたアリストテレスを参考に、ギリシャ・アラビアの全知識を包含した、整合的な隙のない医学体系をまとめ上げ、医学書『医学典範』を著しました。『医学典範』はアラビア・ヨーロッパの医学に絶大な影響を与え、アル・ラージーの『アル・マンスールの書』(医学の簡潔な手引書)や、エジプト出身のユダヤ人イスハーク・アル・イスライーリー(9~10世紀)の『尿の書』(尿診断の基本的なテキスト)も、中世ヨーロッパでよく読まれました。アル・ラージーの医学書は臨床中心、イブン スィーナーは理論中心でしたが、どちらも理論と実践の融合を目指しているといえます。アッ・ザフラーウィー ( Albucasis, 936-1019)が外科を、イヴン・ズフル( Avenzoar, 1091-1162頃)が食事療法の基礎を築きました。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿