医療機関での女性の外来治療は、1839年以来医学部の診療所で行われてきました。 1843年にハセキ スルタン病院では女性患者の入院が一般的になり始め、貧しい、家のない、身内のない、障害のある女性は病院で治療されるようになりました。即ち、オスマン帝国の宮殿の内外での女性医師に多様性がみられるようになったのです。その証拠となるべき事例を取り上げようと思います。
お腹をくるんでいる女性医師 (Paris, Bibliothèque Nationale, Département des Estampes, Od. 26-26a
助産師は「エベ:ebe」や「カビレ:kabile」と呼ばれ、主な仕事は出産を手伝うことだったので、主に助産師とは少し違う女性医師の概念を定義しようと思います。
セレフェディン サボンジュール(Şerafeddin Sabuncuoğlu, 1385-1468、中世オスマン帝国の外科医 )のCerrahiyetü'l Haniyeと呼ばれるhttps://www.tarihikadim.com/sabuncuoglu-serafeddin-ve-cerrahiyetul-haniyye/)15世紀のトルコの手術の模様を描いたミニチュア絵画にあるように、女性患者の手術に関与した女性医師は、女性医師を意味する「tabibe」、一方、男性医師は「tabib」と呼ばれました。
tabibeと名付けられた女性医師が、両性具有者、鎖肛、痔核と疣贅、女性の外陰部にできる赤い膿疱の治療などの婦人科手術を行っているとサボンジュールの論文に書かれており、カビレと呼ばれる助産師は、子宮内で発生する発疹の穿孔の治療、自然な方法で出産されていない場合の胎児の治療、鎖肛の治療、および死んだ胎児の摘出を施術していると言及しています。胎児を抽出するために必要な器具の形態に関する章は助産師が執筆しています。
助産師の助けを借りて出産する女性。Kitabal-Cerrahiyet al-Haniye(Royal Book of Surgery)Sherefeddin Sabuncuoglu 1465. 著から (真ん中が、妊婦です。平然とした趣でこちらを向いている姿は何ともイスラムぽい)
http://isamveri.org/pdfsbv/D01658/1996-1997_2-3/1996-1997_2-3_SARIN.pdf
オスマン帝国の宮殿に残るいくつかの文書は、女性医師に関する信頼性のある情報を提供してくれます。 1450年に建てられたアドリアノープル(Adrianople)の宮殿と、バイジッド(Bayezid)の古い宮殿とトプカピ宮殿(Topkapi palace)の両方に、ハーレム内に大きな病院があり、ハーレムの患者のための風呂があったことを私たちは知っています。おそらく17世紀初頭にトプカピ宮殿のハーレムに建てられたCariyeler Hastanesi(側室病院)と呼ばれる病院は、ハーレム内の住民、即ち、そのほとんどは芸術や給仕の分野で教育を受けたメイドとその愛人達でした。
Cariyeler Hastanesi(側室病院)https://www.360tr.com/harem-dairesi-cariyeler-tasligi-panorama-sanal-tur_deb0e7de0_tr.html
宮殿での治療が(ハーレムの)スルタンの女性または子供を癒すことができなかったときは、法廷の外の治療師が宮殿に呼ばれました。
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